古川友紀

古川友紀 Yuki Furukawa

ダンサー・散歩家。レジーヌ・ショピノ、佐久間新などさまざまな舞踊家の作品に出演するとともに、自作のダンス作品の発表を重ねる。歩くという素朴な行為のなかにある、運動の持続と身の回りの世界の受けとめ方に関心をもち、そこに自身の感性のあらわれをみている。

2016〜2018年、「記憶の劇場」(主催:大阪大学総合学術博物館)のプログラム「TELESOPHIA」の企画メンバー・講師として、災禍の記憶のリサーチをもとにした上演と展示を実施。これを契機として、歩くこと、土地の記憶、身体感覚からなるゆるやかな野外上演《おもいしワークショップ》(2018年〜)をつづけている。この12月に京都で個展「歩 録:Exhibition/Performance」を行ない、これまでの歩行についての探求を展示・上演する。https://yukifurukawa.com


「川に沿って歩く」

 このところ、ある川に沿って歩くことを繰り返し行なっている。その川とは京都市北部の山を水源とする加茂川だ。京都市内を北から南へと流れるこの川は、水源付近の山間部、田園地帯を通って市街地に流れ込む。高野川というもう一つの川と合流したところから、加茂川は「鴨川」と表記を変える。この合流地点はデルタ(三角州)を形成しており、人々の憩いのスペースになっている。私の歩きは、この二つの川の合流地点から水源へ向けてひたすら遡上するというものだ。日曜日の朝9時半に出発し、約4時間ノンストップで歩きつづけると、13時半頃に源流の山を守る岩屋山志明院に到着する。同じ時間に同じルートを歩くということを繰り返している。

 ダンスと並行して、私はこのような歩行についての探求をしている。たとえば、その時集まった人たちと目的地を設定せずに直感でまちを遊歩し、その軌跡を最後に一本の線で地図に描く《即興散歩 アルコテンポの会》。小石をたずさえて、そのまちの記憶(災禍の語りなど)にかかわるテキストを朗読したり、その土地の地形を体の動きでなぞったりするまち歩き上演《おもいしワークショップ》。ほかにも、まちの住人から「穴場」の手描き地図を募ってそこへおもむいてみたり、ある夏の晩にカエルの鳴き声をもとめて歩きつづけたり、というようなことをしている。これらは参加型の催しで、形態によってそれぞれ異なるが、その定員はおおよそ10人を目処にしている。複数人が一緒に歩き、その時間の流れを途切れのないものと感じるのには、それくらいが調度良いからだ。私はこれらをつづけているうちに、自分が歩行の探求にもとめているものは、持続的な時間の流れなのだと思うようになってきた。

 足を繰り出し前へと歩をすすめる行為は、川の流れのようであり、時の流れのようでもある。そこに、思いも寄らない事物や風景との出会いが、ふいにやってくる。目に留まったものから近視眼的なおかしみを発見することもあれば、光の瞬きや風の動きにハッとさせられることもある。また、土地の地形やその歴史から、いま知覚しているのとは異なる時空を想起させられることもある。こうした歩きのなかで去来する思考や感覚は、歩行という持続的な運動、流れつづける時間のなかの出来事だ。それはとても、ダンス的だと思う。

 このエッセイでは、歩行におけるそのダンス的な時間の流れを、今回の加茂川遡上歩きの試みから考えてみたい。なお、この歩行では、身体感覚や思考の巡りを観察するため、ひとりで行なった。同じ道を同じ時刻に歩くというのは、「行」にも似た行為だと思う。

永――川の流れ、時の流れ

 出発地点のデルタは、加茂川と高野川の水が合流する所だ。ここのせせらぎに耳を澄ませると、おもしろい音の変化を味わうことができる。デルタの真ん中に立つと、自分の右を流れる加茂川、左を流れる高野川、それぞれに流水音がちがうことに気が付く。デルタの先っぽへ向かってゆくと、徐々に二つのせせらぎが両耳に迫ってくる。そしてついに合流地点で、二つの流れは衝突し、せせらぎは二川の合わさる音に変わる。地形からなる音の移ろいと、別々の水源をもつ水が一つになることに、ちょっとした感動をおぼえる。「永」という漢字は複数の川が合流するさまをあらわした象形文字らしい。川はぶつかりあい、合流を繰り返しながら新しい流れを生み、どこまでもいつまでも流れつづける。そのような川の流れの時間的、空間的な「ながさ」を象ったのが「永」だという。鴨川デルタに佇んで、水の流れがぶつかりあうさまを見ていると、川の流れとは時の流れを可視化したもののように思えてくる。

加茂川遡上歩き私的観察

 さて、加茂川に戻ろう。デルタを出発し、川を遡って一定の歩調で歩きつづける。だんだん体に変化が生まれる。歩く振動が全身につたわり、筋肉のこわばりがほどけてくる。ゆるやかな上り坂に対して、一歩一歩、振るように足を前へ繰り出す。股関節、膝、足首、足裏にかけて、連動を感じる。垂れ下がった腕の重みを感じはじめる頃には、鎖骨の下の胸部の緊張も消えている。つづけていると、うまくいけば仙骨付近が真綿につつまれているような感覚を得ることもある。調子のよい日には、歩きながら体をマッサージしているような……。

 周りの環境からも体は影響を受ける。山間部では、山の急斜面に北山杉が林立する光景を目にする。きりっとした垂直の力の線を見ると、背筋が自ずと伸び、頭蓋と頸椎の隙間がスッとひらく。出発地点から最終地点までの標高差は約400m。山間部を車で走ると、気圧の変化で突然耳奥がツンとするなんてことがあるが、徒歩の場合はそうしたことはあまりない。表情筋はゆるみ、目元がとろんとして、視線もやわらかくなる。その時々の体調や気候によってちがいはあるが、同じルートを歩くうちに、身体感覚の変わりようを私的に観察できることがおもしろい。

 ひと呼吸おいて背後を振り返ると、川の流路はゆったりとした弧を描いていた。私が川に沿って真っすぐ歩いているつもりでも、川自体はゆるやかにカーブしていたのだ。

 このように、歩く途上の身体感覚の変化(体の内)を味わう一方で、目の前にある事物(体の外)へ意識が移行することもある。興味深いものを発見し、そこから何かを想起させられ、連想を超えて、ここではないどこかへゆく。私は歩きながら生じる、そうした体の内と外への意識の変化を観察し、独り言ち、その声をボイスレコーダーに録る。音声を後から聞き返すと、自分の喋っていることの飛躍が甚だしい。また、録音には自分の声だけでなく周囲の音も入っている。行き交うランナーの足音と息遣い、さまざまな種類の鳥の鳴き声、人の喋り声、そして加茂川のせせらぎ、などなど。多様で複雑な世界のなかを自分は歩いていたことに気付かされる。

 そういえば、ある地点にくると毎度必ず目に留まるものがある。目で見ようとする前に、視線の先に「それ」がある。北大路橋を越えたところの「あの」ベンチ、対岸に立っている奇妙なかたちをした「あの」木、いつも亀が甲羅干しをしている「あの」石、ガードレールの下にはびこった「これらの」苔、木立の一本一本が浮き立っているような「あの」山の斜面、蛇行した道の山陰の先にある「あの」川の流れ……。なぜ見てしまうのか分からないが、自分の感受性とそのものに宿る特性が妙に重なり合っているのだろうか。出会いに不思議さをおぼえる。とともに、固有のものへのささやかな眼差しの積み重ねから「その人らしさ」を形づくる微妙な動き――「振舞い」も生まれてくるのではないかと思える。人の佇まいとは、通ってきた場所と記憶が切り結ばれ、身体へと染み込んだものなのだろう。

時の流れ

 歩いた記憶を振り返るとき、私は、それがひとつながりのシームレスなもののように感じる。1カットの長回し映像を見たような感じが残るのだ。もし、歩く人をどこからか俯瞰的に眺めることができたならば、それは世界にひと筋の線が描かれているように見えるのかもしれない。そのように考えると、歩くこととは、新たなものに出会う行為のようでいて、じつは、誰かの痕跡を辿る行為のようにも思える。世界にはさまざまな巡礼の道があるが、それは、聖者の歩行の跡を辿ることであり、そこに自分の体を沿わせることであり、そして聖者の体を自らの体にうつしとろうとすることでもあるのかもしれない。それは振付けにも通じているように思う。

 さて、川の合流を象った「永」が、時間的、空間的な「ながさ」を意味するのだとしたら、川という動的なものの「速さ」にもふれておきたい。距離÷時間=速さの数式から、一定の速さを導き出すことはできるが、仮に速さを「時の流れ」としたならば、それは数値であらわし得るような一定のものではない。現実の時の流れは伸び縮みする。なにかに打ち込んでいて、思いのほか早くに時間が過ぎているのを知ったとき。待ち合わせに遅刻して、焦りから数分がずいぶん長く感じるとき。ほかにもいろいろ、生きているとその時間の経過は感覚的にはゆらいでいる。そんなゆらぐ時の流れをあつかうものが、ダンスなのではないか。ダンスをはじめとした時間芸術、上演芸術は、そのはじまりからおわりまでのあいだに、さまざまな情景や場面を描き、また、ある感覚へと人を導く。一度幕があがるや演者は上演の時間のなかにおり、その体で時を紡ぐ。それは、ゆっくりだったり、一瞬だったり、一瞬だけれども永遠に感じられるものだったり。上演の時の流れとは、四次元の出来事のようにゆらいでいる。ゆらぎの蜃気楼の先に、遥か遠くのイメージへ、いつのまにか連れていかれたりもする。そんな特殊な時間を生むのがダンスなのだと思う。

 ついに私は、水源である岩場の洞窟にやってきた。そして、薄暗い洞の奥より加茂川の源、その水滴がおちるのを待つ。川という永い、一瞬のはじまりを。