梅田宏明 Hiroaki Umeda
振付家、ダンサー、ビジュアルアーティスト。2002年より自身の振付作品がパリ・シャイヨー国立劇場など世界各地の劇場やフェスティバルに招聘され、これまでの公演先は世界40ヵ国/150都市以上に上る。作品では振付、ダンスだけでなくサウンド・映像・照明デザインも手がけ、作品はダンスだけでなくテクノロジーアートや音楽の分野などでも多く上演されている。
2010年からは錯視と身体的没入感覚にフォーカスしたインスタレーション作品も制作している。アルスエレクトロニカ(リンツ) デジタルミュージック・サウンドアート部門入賞(2010年)、映像作品が21_21 DESIGN SIGHTの「AUDIO ARCHITECTURE展」(2018年)で展示されたほか、ダンス作品を元に制作されたドーム型映像作品はドイツやポルトガルのフェスティバルで受賞、その他世界の様々な国で上映されている。
「身体に立ち現れるものとは」
– 身体の系とアティチュード –
ダンスとは固定化されない、定着されない身体というメディアを取り扱う芸術である。私は振付家・ダンサーとして、身体は自然物であるという立場を取っている。その固定化されない自然である身体というものは、どのように取り扱われダンスとなるのか。個々の身体で起こるダンスは、よく観察していると、どれも違うものである。同じダンススタイルで同じ動きをしていても、なんだか妙な違いが個々の身体に現れてくる。そのダンスの身体の妙さを語る上で取り出しておきたい単語は、系(システム)とattitude(アティチュード)である。
まず、ここでいう系(システム)という言葉は、物質の繋がり方のようなものである。例えば、酸素の原子はOであるが、OはH2Oで水になり、CO2で二酸化炭素になる。その繋がり方によって、同じ原子からでも全く別の物質となりえる。この繋がり方を系(システム)と言うこととする。ダンスを考えるときに、身体の中にその系のようなものが存在するのである。様々な物質で構成されている身体という見かけは同じようなものが、その繋がり方を変えることで、ダンスとして出てくるものが全く違うものになるわけである。身体そのものが変わるのではなく、系が変わることで、表出されるものが変わるのである。ある動きを身体で引き起こすには、身体全体を適した系で動かすのである。言葉が抽象的で分かりづらいかもしれないが、スポーツの身体、演劇の身体、ダンスの身体の違いは、系(システム)の違いであると私は捉えている。
次に、attitude(アティチュード)という単語だが、「態度や姿勢、考え方」と訳されるであろう。英語になってしまうのは、日本語で対応する単語を見つけられなかったことと、attitudeという単語が「適性」という意味を含むため、この英単語の方が適していると判断したためである。では、このattitudeだが、それはなにか。それは系を決定するものである。身体にどのような系を採用するのか、それを決定するものがattitudeである。単に態度と言った方がわかりやすいかもしれない。どのような態度で身体を扱うのか、それを身体に対するattitudeとし、attitudeによって系が決定され、それよって身体に何かが表出されてくるのである。
– ものとしての身体 –
私は踊る上で、また身体を作品に配置する上で、私は身体をただの”もの”と定義するようにしている。人間である以前に”もの”である。踊りを見出していく過程で、私は人間の体であるという先入観や偏見を排除したかった。社会性として身体の観念を排除し、人間という生物的先入観も排除したかった。そのように身体の纏わり付く属性を排除していくと、ただの”もの”としか言えなくなる。その未定義な”もの”と向き合っていくことが、私にとって踊りである。踊りという手段によって身体と向き合うことで、身体を発見していく、そのことに充実感と喜びを感じるのである。ただ未定義であると、そこには混沌さや曖昧性さしか残らない。しかしattitudeという流れを与えることで、なんとなくまとまり、なんとなく身体がある方向に向かって整っていく。それは姿勢であり、秩序である。
身体という極めて複雑で難解なものが持つ、その混沌とカオスに、秩序という流れを通す、それこそがattitudeである。attitudeによって、系が起こり身体は整然となり、態度と姿勢を持ち、躍動する。踊り手のattitudeが踊りを踊りたらしめるのだ。attitudeは極めて固有なものであり、身体の数だけattitudeが存在する。そしてそれは複製不可能だと私は感じている。
私が自身の作品の中で、自分の身体を配置する理由は、その複製不可能性が故である。私の身体に起こるattitudeでないと実現できない何かがある。私の作品に必要なものは私の身体そのものではなく、私の身体にあるattitudeであり、今のところそのattitudeを実行する最適なメディアは私の身体なのだ。
– アティチュードの決定 –
では踊り手が持つそのattitudeとはどこからやってくるものなのか。そこが身体の捉え所のないやっかいさであるのだが、attitudeもまた身体という”もの”から与えられるのである。身体という”もの”はattitudeを与えられるものであるが、同時にattitudeを決定する存在でもあるのだ。インプットとアウトプットが同時に発生するような矛盾を感じるが、矛盾を感じてる己の方を矛盾としないと踊れなくなる。それはとてもやっかいだ。attitudeの決定も実行も身体によって行われる。そしてattitudeは固有なものであり、個々の身体にそれぞれに宿る。複製不可能な理由は、個々の身体が複製できないからである。ではその身体の主体はどこにあるのか、私にはまだ未解決である。