岡元ひかる

岡元ひかる Hikaru Okamoto

ダンサーとしての経歴を経て、現在は、舞踏やコンテンポラリーダンスの研究を行う。神戸大学大学院人間発達環境学研究科博士後期課程に在籍中。2014年に横浜ダンスコレクションEX 新人振付家部門 奨励賞受賞。2015年より1年間、ベルリン自由大学に留学。同年より4年間、薄井憲二バレエ・コレクションのアシスタント・キュレーターを務めた。近年は、神戸のショーケース公演「ダンスの天地」やChacott DANCE CUBE WEBMAGAZINE等にてダンスの公演評を執筆するほか、2018年に神戸大学所属研究科主催「土方巽の舞踏譜ー舞踏家・正朔による実践と舞踊研究の交点を探るワークショップ」を企画・運営した。


空を箸で摘まむこと 土方巽とその弟子の舞踏について

 私は今パソコンに向かって本文を執筆している。この瞬間も問題なくキーボードを叩いている。ところで3秒前に突然キーボードが故障していた可能性もあったが、壊れなかった。部屋に強盗が押し入る可能性もあったが、何も起きなかった。また、急に素晴らしいアイディアが頭に浮かびテーマを変えていた可能性もあったが、それもなかった。結局なにも起きなかったので、そのまま執筆を続けている。

 つい3秒前まで、自分のありようには色んな可能性があったのだ。「執筆を続ける私」の他に、「キーボードの故障を嘆く私」「強盗に出会う私」「テーマを変えている私」など、可能性としてなら何だってあり得る。全くあり得なさそうであっても、当の3秒後が訪れるまでは、その話が現実となって真となるのか、それとも偽となるのか判明しないのではないか。というか、事実ではなくあくまで可能性としての話に真偽を問うこと自体、ナンセンスではないか?このような考えを突き詰めると、3秒後、何かが起こって部屋中が花粉で充満していたり、突飛な事情によって皮膚に500匹の虫が這っていたりすることも、「あり得る」とまでなら言えるはずだ。さらに極端化するなら、私は急に年老いていたかもしれず、はたまた馬や牛にもなり得た。もはや可能性というより作り話のようだが、いずれにせよ真偽のジャッジから解放された世界では、想像力がどこまでも好き放題に跋扈できそうである。

 一方、ここで疑問も湧いてくる。可能性として存在した無数の私のバージョンの中から、他でもないこの「執筆を続ける私」が現実となったのはなぜか?それは神が決めたのだ、という発想にでもならない限り、「今自分がこうであること」の根拠を見つけるのは難しい。ならば、自分の運命を全くの偶然とみなしてもよさそうである。どの瞬間における私にも必然性はなく、常にたまたまこうなっているだけ。とすれば、過去に潜在していた「キーボードの故障を嘆く私」や「花粉に包まれる私」や「老婆としての私」という数々の可能性たちと、たまたま〈今〉の地位を獲得したにすぎない「執筆作業を続ける私」とのあいだに、優劣など無いような気がしてくる。もしこのような気分が加速してゆけば、いくつもの可能性たちの上に唯一の〈今〉が君臨するヒエラルキーは崩壊し、私は私の中心を見失うだろう。

 ところで、先に列挙した花粉の話や500匹の虫の話、そして老人や動物になるという話は、舞踏の稽古で用いられる言葉を参考にして書いた。一言で舞踏といっても世界中に色んな活動が散在しているが、ここではかつて土方巽に師事した弟子が受けていた稽古について言いたい。土方巽は1959年のデビューから晩年の85年まで活躍した、舞踏の開祖である。彼は弟子たちに振付を行う際、非常に多くの言葉を与えたことで知られている。当時の弟子たちはそれらをノートに書き留めていたので、今も思い出すことができる――――ナイフの刃の上を歩いている、壁に塗り込められる、口や目や耳のなかに花粉が充満している、無数の視線に解体される――――どれも「起こり得ない」と言い切りたくなるところを、あえて「起こらなさそう」と表現するに留めておきたい。というのも、土方の弟子は、「過去にこうなっていたかもしれない/未来にこうなるかもしれない」可能性たちを踊り、実体を与えることで、〈今〉の特権性をどれくらいまで奪えるか?という難問に、師匠と共に向き合っていたのではないかと思うからだ。

 筆者は、1974年から土方のもとで舞踏を学び始めた、山本萌(やまもともえ)に取材したことがある。山本は、現在石川県の金沢を拠点する舞踏家で、金沢舞踏館を主宰する。

 土方が構成・演出・振付を手掛けた『楼閣に翼』(1978)に出演した山本は、その稽古で土方から受けた指示をノートに書き留めていた。その記録と山本本人の記憶によると、本作に登場する或る1、2秒のシーンを振り付けるために、まず「沖縄老婆」「包丁」「大きな傘」という言葉が与えられた。これによって差し当たり、踊りに順序が発生する。地面を箒になった腕で掃く(箒を手で持つのではなく、腕から下が箒そのものになっている)沖縄の老婆になるところから始まり、次に箒の手が包丁を持つ手になり、その包丁が傘になり、傘をさすような姿へ。腕が下方からだんだん肩あたりまで上昇する数秒間だ。

 ところが、それをやってみせた山本の踊りに、土方は納得しなかったらしい。山本によれば、そこで土方は改善のために、言葉と言葉のあいだに新たな言葉を挿入した。箒の腕で地面を履く「沖縄老婆」から、両手で持った頭蓋骨を凝視する「ナチの将校」となり、そのうちの片方の手で「包丁」を持ち、包丁を持つ手の「指が一本持ち上がる」、そして「傘」である。結果として、振付の個数が増えたかのようだが、山本はそうは認識していなかった。なぜなら、ここではそもそも時系列的な線上に、振付を順に並べるために言葉が与えられたわけではないからだ。彼の言葉を借りるなら、むしろ言葉は「一瞬で3つ(の振付)を繋げていく」あるいは「3つに関わる」ことを、より上手く行うために挿入される。

 2つ以上の振付を繋げたり、それらに関わったりする時点で、すでに「一瞬」より長い時間が流れてしまっているような気もする。しかし山本は、比喩としてではなく文字通り、一瞬において複数の振付を実践すると言っているのだ。なんだか逆説的に感じられるが、翻れば、この逆説こそ、老婆としての私、包丁を持っている私、骸骨を凝視している私……という様々な可能性たちを、〈今〉と同じ場所に救い出そうとする狙いを表してはいないだろうか?

 「今こうであること」と、「過去にこうなっていたかもしれない/未来にこうなるかもしれない」の境界が取り払われ、現実と可能性の見分けがつかない状態。自分のアイデンティティが常に誰かと誰かのあいだで決まらない、中心を欠いた状態。土方の稽古には、こうした不安定さを継続させようとする一面があったのだと思う。それは、数々の可能性のうちどれかを唯一の現実に格上げしてしまうのではなしに、それらに共通する潜在的な身分をキープしながら、複数の可能性に同時に実体を与えようとする挑戦だろう。そのため踊り手の身元が、例えば老婆としての私、将校としての私、指を一本あげている私に特定される様子や気配が認められたとき、〈今〉がごくごく簡単に別様になり得た/別様になり得ることを思い出させるべく、言葉が挿入される。個々の私を接木のように連結させるためではなく、或る私を、個々の可能性たちへと細かく砕いてゆくために。

 複数の可能性を同時に踊ること。それは、それぞれ別次元の世界に住む、いくつもの私を同時に踊ることではないはずだ。観客が見ている舞台と同じその舞台の上で踊りを成立させるためには、他でもないこの世界の現実に―――かろうじて、なんとか立っていられるくらいには―――足場が必要である。でなければ、踊り手は自分の輪郭を保つことすらできないだろう。

 もっとも土方は、死を迎える直前の神戸での講演で、私たちの世界を破壊してしまうようなイメージを語っていた。それは幼少の彼が住んでいた実家の鶏小屋に、(いたち)が侵入した話に登場する。鼬の凶暴さは「鼬の歯、喰いちぎる歯、ああいう歯を私は持ちたい」(148)と思わせるほど土方にとって魅力的であり、その事件は「鶏でなく人間を引き裂いた電気が今この寝呆けた空に電流のように走った」(147)出来事だったと語る。土方は、この世界を覆う「一枚の皿」(158)のような空に電撃を喰らわせるような破壊性を肯定していたのである。これだけに注目すると、もはや土方はこの世界から足場を完全に放棄しようとしたかのように見える。だが私見では、土方と弟子が格闘していた相手はむしろ、踊り手が輪郭を保てなくなる寸前までに足場を小さくするとしたら、どこまで小さくできるか?という問題だったのではないかと思うのだ。完全に破壊されないギリギリのところを、どれだけもっとギリギリにできるか、である。

 「私の場合、足で歩くという経験をほとんど舞踏の中から取りはずしているんです。幽霊になぜ足がないのか、ところが幽霊でもああいう形態を保っているわけですね。何かを支えている、支えなければ浴衣と同じで落ちてしまう。支えているもの、エアー(air)ですね」。神戸の講演と同年のインタビューで土方がこう語ったところによると、この世界で「形態」を保つための拠点は、幽霊と同じように、どうやら足元に求めることはできないようである。ならば、どこに?

 土方が例の鼬について語った際、「なにかとても重要なことだったと思うのですが」と一瞬だけ振り返っていた件を、最後に紹介したい。それは小屋への侵入事件の勃発前に「私の病的な芯」が「空を箸で摘まむような、そんな暁方を予兆していた」ことであった(146)。筆者には、土方のこの空への一瞥が、示唆深く思われるのだ。

 この世界の現実を箸で摘まむような感覚で、地面に落ちるのでも天の空に近づきすぎるのでもないところに、自らを宙吊りにしておく。この宙吊りの姿勢で、私をこの世界に仮留めしておく最小の場所が中間の高さに確保されているならば、どうにかギリギリ立っていられるのではないだろうか?筆者の管見の限り、土方から舞踏を学んだ弟子たちの佇まいは、地面を二本脚でしっかりと踏みしめる佇まいとは明らかに異なっている。彼らは宙吊りの佇まいで、人間以外の存在へと変貌している。   

 色んな可能性たちを救い出すためには、唯一の〈今〉を叩き壊すのではなく、〈今〉という瞬間に、なんとか過去と未来を取り込むためのスペースを確保しようと努力せねばならないのだろう。まるで、水を草刈鎌で切って「断面止まれ!」と命令するように

【脚注】

⑴2013年より毎年主に秋田で開催されている、POHRCという合宿形式の舞踏ワークショップがある。このワークショップでは土方に師事した舞踏家などをゲスト講師として招き、数日間連続で舞踏の稽古を受けることができる。筆者は2018年にこれに参加し、講師を務めた山本萌にインタビューを行った。(POHRC のウェブサイト http://butoh-ws.com/ja/projects/)

⑵「沖縄の」老婆という発想の由来は、調査が足りていないので不明。この後に登場する「ナチの将校」などの発想源についても同様である。ただ各モチーフが物語的に連関するのではないことは確かである。

⑶1985年に「土方巽舞踏行脚・其の一」として、神戸、大阪、京都、金沢、名古屋で講演会が行われた。このエッセイでは、以下に所収された神戸での講演記録を引用している。なお、引用の際には、所収元のページ数のみを記載した。

土方巽2016「舞踏行脚」『土方巽 全集[新装版]Ⅱ』種村季弘 他 編、河出書房新社、144-158頁

⑷土方巽1985「極端な豪奢・土方巽インタビュー」『W-NOtation』No.2、UPU、7頁

⑸土方巽2016「風だるま」『土方巽 全集[新装版]Ⅱ』種村季弘 他 編、河出書房新社、117頁