林慶一

林慶一 Keiichi Hayashi

1986年生まれ。制作者。2006年より小劇場die pratzeにスタッフとして参加。2005年~2015年は自身のパフォーマンス活動を併行して行う。2012年より「ダンスがみたい!」実行委員会代表。同年、d-倉庫 制作。アーツカウンシル東京 平成29年度アーツアカデミー事業 調査研究員(舞踊分野)。2019年「放課後ダイバーシティ・ダンス」プロデューサー。


日本・現代・舞踊」

 日本の舞踊界において<現代舞踊>および<現代の舞踊>の指示対象はきわめて恣意的であり、発話者の前提とする文脈や場面によって解釈が必要となる。前者は多くの場合、大正時代に興った西洋舞踊系の新舞踊に端を発するいわば近代舞踊、のちにモダンダンスと呼ばれる踊りを意味し、今日まで維持されている舞踊分野を指し示す。また、これと区別される形で2000年前後に勃興した舞踊界の新展開には<コンテンポラリーダンス>という呼称が用いられている。一方で後者は字義通りに現代という時代区分における舞踊活動の総体を対象とするが、コンテンポラリーダンスに関わる言説においてはここから前者の舞踊動向を除外する傾向がある。これは現代的=前衛的という含意において、現代舞踊という実践領域を前世紀的舞踊形式のアーカイヴと見なすコンテンポラリーダンス界隈の認識によるものと理解される。現代舞踊とコンテンポラリーダンスの区別は便宜上の問題としてゆるやかに了解とされてきたが、近年、現代舞踊の全国的統括を担う現代舞踊協会が「現代舞踊(モダンダンス/コンテンポラリーダンスなど)[1]」と自ら概念定義を改めているから[2]、もはや両業界のパワーバランスでしか語りようがない。このような現代舞踊とコンテンポラリーダンスというふたつの分野間に生じている微妙な重複とすれ違いは、まず双方向的な無関心による非交渉状態の産物であるが、それ以上に近現代の舞踊芸術史にかかわる正史の作成が一向に試みられる気配さえないというのが根源にあろうと思う。

 ところで、現代舞踊協会による<現代舞踊>概念の射程修正は、石井漠を始祖とする現代舞踊の単線的歴史に、コンテンポラリーダンスの展開を統合することを意図したパフォーマンスであるとも理解できるだろう。日本の現代舞踊はその発端と言われる1916年から一世紀を跨いで息長く続く歴史を持った舞踊文化である。戦前に家元制度を踏襲して築かれた稽古場文化の名残を残し、前述の現代舞踊協会は約2400名の会員を擁して[3]、日本バレエ協会、日本舞踊協会などと拮抗する一定のポジションを保持している。その呼称である<現代舞踊>とは、戦前、近代舞踊と現代舞踊はほぼ同義的に用いられており、結果的に現代舞踊の方で定着して今に至るだけのことで、本来は含意にそこまで拘る必要はない[4]。ただし、文化的前衛としての社会的存在感を示したのは主に戦前であり、のちにアヴァンギャルドの勢力が取って代わる。その分水嶺となったのが1959年。まず、全日本芸術舞踊協会(現代舞踊協会の前身組織。以降、全芸舞協と記す)主催の新人公演で発表された、土方巽の《禁色》と若松美黄の《状況》がセンセーショナルに舞踊界の賛否を分かつ。この公演を保守的に硬直化した現代舞踊界への新風として評価した合田成夫、山野博大ら批評家に対し、協会に属する舞踊家はじめ複数の批評家はこれを非難して、ついには協会への土方の推薦を取り持った高田せい子の責任まで追及される事態に発展した。そして同年この二人が出入りしていた津田信敏舞踊学校の女性門下18人の作品を発表する「20人の女流AVANT-GARDE」が催され、この公演のパンフレットに山野博大が寄稿した全芸舞協の合同公演に向けた批判文章の内容に関し、全芸舞協と当時同協会の理事・広報部長だった津田信敏は対立。これを受けて津田は自身の門下を中心とした21名と共に協会に脱退届を提出した。この決別は両者の文脈を決定的に分断するメルクマールと言えよう。それ以降の舞踊界における歴史的トピックスがアヴァンギャルドの勢力に席巻されていることはここで改めて確認するまでもない。つまり、現代舞踊界はコンテンポラリーダンスの台頭を待つまでもなく、前衛としてのイニシアチブを失っていた。現代舞踊界がそれでも存在を繋いだのは各舞踊家がお稽古文化の担い手として地場に貢献していたことによるものだろう。そして前衛とはまったく別の道に、つまり人材育成、当該分野の普及といった方に力が注がれたのである。

 しかし、このように両舞踊領域間で長らく埋まらなかった乖離は、ここ十数年に台頭した新世代において雲散霧消している。彼ら彼女らの活動はもはや両分野のいずれかに属性付けて類別することがきわめて困難である。モダンダンススタジオ出身のコンテンポラリーダンサーは増加傾向にあり、現代舞踊系の取り組みを軸にしながら活動範囲を拡げるために両分野を股にかける若手舞踊家も多い。そうしたなかで方法論が混淆している向きもあるが、かつて協会系舞踊家と土方ら前衛勢力を分け隔てたような近代を巡る思考というのが意識の埒外になっているということ、つまり近代への抵抗というパラダイムが今や失効しかけている状況の反映ではないだろうか。しかし、それは近代の超克や消滅と同義ではない。歴史観の希薄化により問題系ごと忘却され等閑に付されているだけであって、いまだ近代の力学が支配的であるがゆえにコンテンポラリーダンスが現代舞踊への回帰に導かれているとも理解できよう。よって前述した現代舞踊協会が<現代舞踊>の包摂範囲を拡げ、コンテンポラリーダンスを(概念的に)吸収しようとする動きは、ことのほか現状に即したリアリティがある。ここに至って両分野の舞踊家のアイデンティティは極めて不確かな状態で晒されている。

 特定の芸術(舞踊)分野への帰属意識を前提にしたアイデンティティを思考する時代錯誤を顧みないわけではないが前述のような混乱状態を鑑みても、中途半端な帰属感覚によって刷り込まれた曖昧な役割意識というのはやはり問題含みである。そこでは、伝統および近代に対する分析的、批評的視座と、そこから見いだされる現代へ立脚する意識自体が損なわれていく。

 ただ、このように記してみて突き当たるのは、上記に類する日本における歴史観の喪失に関した指摘はコンテンポラリーダンスの成立以前から存在する批評のフレームワークであり、むしろ今日的に問題とすべきは、こうした空転する反省によって何事か局面を変えられるとする観念の方であろうとも思う。

 とりあえず本稿の試みは、いわゆる叩き上げで2006年から制作者としてコンテンポラリーダンスの現場に関わっている私のごく主観的な現状認識を下敷きにして、状況論に僅かながらの肉付けをしていくこととしたい。


 バブル経済期も過ぎると、それ以降に出生した世代にとっては戦後という共同性も失われており、近代とは時代を覆う概念であるよりもまず自らの身体における自明なものとして確認されるようになった。身体を媒体とする舞踊芸術という場で、近代との対峙のあり方に世代的ギャップは当然のこととして生じる。冷戦が終結するとともに政治的イデオロギーに基づくグローバルな闘争が終わり、歴史の終わりと呼ばれるような局面を迎える。近代が生み出した大きな物語が失効し、あらゆる小さな物語が均質に存在するような、いわばポストモダンの時代に呼応する形で台頭したのがコンテンポラリーダンスであったとも言えなくはない。しかし1990年代以降、政治的な闘争が経済の問題に移行していく状況において、アート・マーケットとの結びつきによって、価値と文脈が位置付けられる諸外国のコンテンポラリーダンスと異なり、日本の場合はそのようなマーケットという考え方が文化的にうまく根付かなかった。国内でのマーケット形成だけでなく、グローバルなアート・マーケットへの参入に失敗したことは、良くも悪くも、日本における諸実践が非文脈的に拡散、散逸する現在の状況と地続きとなっている。

 2000年前後に台頭する日本のコンテンポラリーダンスは、1980年代中期から1990年代にかけて輸入されたタンツテアターやヌーベルダンスからの影響を国内のサブカルチャーやポピュラー文化に接続することで再文脈化し、西洋中心的規範性を絶妙にズラしながら、批評的距離を保つような手法で独自の展開を見せた。

 2005年には『美術手帖』、『現代詩手帖』の巻頭にコンテンポラリーダンス特集が組まれ、東京都写真美術館では開館10周年記念展のひとつとしてコンテンポラリーダンスのインスタレーション展示が催されるなど、コンテンポラリーダンスが新しい現代芸術のひとつとしてアート・ワールドに承認された形となった。

 しかし、コンテンポラリーダンスの状況は、この頃を最盛期にして一転し保守化、失速がしばしば嘆かれるようになる。より正確には、界隈における漠然とした不満の表明がこの頃から徐々に積み上がり、既成事実化して状況に刷り込まれていった、と言うべきかもしれない。なぜならこの時期に生じた求心力の低下は、シーンにおけるある種の活気や新鮮さの喪失という体感的レベルから生じたものであり、これまでその内実について実証的に踏み込むような議論はあまりなかったからだ。

 前述の通り、ヨーロッパ系の新興ダンスが輸入され始めた1980年代なかば、日本ではパフォーマンスと呼ばれる動向がピークを迎えていた。西堂行人はパフォーマンスという概念が定義不可能である(定義すべきでない)として次のように述べている[5]

 なぜなら、様々な表現ジャンルが解体しはじめた時に、パフォーマンスがそれと入れ替わるようにして登場してきた言葉であるからだ。だからそれはジャンルを固有なものとして自立させるかのような幻想をあたえてきた<近代>というものの崩壊過程に見合って浮上してきたものだと言いうるかもしれない。

(西堂1985:39)

 1980年代、表現を類別するジャンルの自明性の瓦解が実践現場で肌感覚として生じていたとすれば、ダンスの領域も例外ではない。実際、このパフォーマンスの動向への参加者として数多くの舞踏家が名を連ねている他、1986年、「バニョレ国際舞踊振付コンクール」での入賞によって日本のコンテンポラリーダンスに先鞭をつけたと見なされる勅使川原三郎もこれに加わっていた。これをもって、<パフォーマンス>がもっていた活動原理がコンテンポラリーダンスに継がれているとまでは言えないが、少なくとも、そこで生じていたような未分化な身体的表現形式への欲求が、1986年の土方巽の死去を挟みつつ、舞踏の勢力も巻き込みながら小劇場で一斉に解放されたと見るのはあながち間違ってはいないと思う。これを敷衍すると2001年の『美術手帳』の特集「VIVA!肉体表現主義」が意味を帯びる。前述した2005年の同誌特集と異なり、美術、音楽、演劇、ダンスといった分類を問わず、「肉体表現」の先鋭として、山下残、ニブロール、珍しいキノコ舞踊団、伊藤キムといった今日のコンテンポラリーダンスの担い手が、他分野のアーティストと並列に紹介されている。これはアートシーンにおいて、ダンス以前に身体表現を焦点化する機運が高まっていたことを示しているが、同誌への寄稿で桜井圭介は次のように状況への所感を記している。

 特集のタイトルを「肉体・表現主義」と、わざと誤読してみる。アートの世界でも「肉体」と「表現主義」は相性がいい、というか切っても切れない仲。だったわけでしょ、二十世紀は。(論理的)抽象が煮詰まっていくときに、かならず身体がせり出してくる、そしてそれは「表現主義」と呼ばれた、と。

 では仮に、いまこの場所(の表現)において、「身体」のせり出しが(ふたたび?)勃興しているとして、それはこれまでと同じものといえるだろうか。おそらく「ここ」は「スーパーフラット」という言葉がふさわしい場所、それを乱暴にいってしまえば、「ここ」に特化されたわれわれの「ポストモダン」ということだが、それはけっして「リアル」の超「希薄」さ、といった単純なものではなく、だから、その反動として身体がせり出すという図式も成り立たない、というか、身体の無根拠で超・過剰なせり出しが、「リアル=身体性」の希薄さを進行させることに加担する、そのような場所ではないか。

(桜井2001:72)

 このような「身体性のせり出しが」、「代入可能な『〇〇』の様態ではなく、その『過剰さ』と〇〇であることの出自・必然の『無根拠』」として出現した。乱立する個人主義的突出の無秩序な空回りが(理論に依らない混沌が通約を求めない形で)、ある種の活気を醸成していくような状況である。また他方で、このような身体表現が活況を示すなか、そのダンス寄りの動向にあてられた<コンテンポラリーダンス>という呼称がある程度定着し、舞踊学会でコンテンポラリーダンスの定義がはじめて扱われるほか[6]、「JCDN(ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク)」が発足するのも同誌特集が組まれる2001年だった[7]。1960年代初期の土方巽が前衛美術家のパフォーマンス(ハプニング)と協働して舞踊のアヴァンギャルド(反舞踊)の土俵を開拓したように、日本のコンテンポラリーダンスは1990年代にその基礎を築き、2000年前後、アートの世界で生じた、「肉体表現主義」なるものに合流することでシーンの局面をさらに押し進めた。

 これ以降、2000年代中期に向けて日本のコンテンポラリーダンスについての批評理論も活性化していく。その筆頭が桜井圭介、木村覚、武藤大祐などだが、特に桜井の「コドモ身体」理論(2003年[8])はパフォーマティブに展開され、自身の企画する「吾妻橋ダンスクロッシング」(2004年~)での分野横断的なパフォーマンスの紹介においてリファレンスを示した。桜井の戦略とは、身体表現への機運の高まりを「出自・必然の『無根拠』」と見なして、そのような状況を逆手に取り、また「コドモ身体」という理論的ハブを用いて、「これまでダンスから区別されてパフォーマンスとかイベントと呼ばれていたものをダンスと言い換えて、ダンスを乗っ取りたい」(桜井2005:65)というものであった。そこでポイントとされるのがダンスの「快楽=グルーヴ」であって、反舞踊の歴史的動向というのは、知的に傾斜して快楽が欠落していたために継続せず、技巧的、身体的洗練に引き戻されてしまうのだという見方を示す。乱暴に要約してしまえば、そのような歴史的反復を打開するのが「グルーヴィーなもの=コドモ身体(の状態)」(岡崎・桜井2005:213)なのだというのが桜井の示したアジェンダだった。

 またこれに若干重なりあう形で、木村覚は国内コンテンポラリーダンスの諸実践をフィジカルアートの視座から捉えなおし、パフォーマンス・アートやポスト・モダンダンスなどにおける実践理論を現在のダンス状況に投射した再文脈化を試みている。ところで、1975年、アメリカのジャドソンチャーチを拠点とし立ち上がった<ポスト・モダンダンス>の動向に影響を受けて帰国した厚木凡人の企画、「DANCE TODAY’75」において、国内で初めてポスト・モダンダンスの旗手が紹介されて以来、厚木、黒沢美香などにおけるミニマリズム的なダンスへのアプローチのほかに、本家の方法論的な多様性は日本ではあまり伝播を見せず、2000年代のコンテンポラリーダンスにおけるパフォーマンス的実践の手法において隔世的に引き継がれ、ヴァリエーションが生み出されることになる。木村の提案はその意味でアクチュアリティがあった。

 また木村は、日本のコンテンポラリーダンスの独特なスタイルの発生要因について、1980年代から輸入されたヨーロッパ系新興ダンスの規範性に対して、その影響を巧みに流用し、「一種のブリコラージュ的な手法で無手勝流の作品を生み出す意思」(木村2005:96)があると言及して、その原型に土方巽を措定する。

 この意思の第一人者を推定するならば、誰よりも土方巽がその人物にふさわしい。最初期にモダンダンスに深く傾倒しながら、そこから激しく逸脱していった土方は、69年のいくつかのインタビューで日本人の身体が「はぐれている」と説いた。〔……〕身体を統制する規則や思想から逸脱して生まれる余白に、ダンスの新たな可能性を探ること。土方が日本のダンス界に与えた様々な刺激のなかで、暗黒舞踏が直接のルーツではないダンサー(振付家)たちへも広く伝播し、いまだ知られざる運動のスペースを発見する面白さと勇気を彼らに与えたのは、おそらく、子供をモデルとみなすような彼の逸脱への意思であったろう。

(木村2005:94)

 敷衍すれば、土方巽と日本のコンテンポラリーダンスの連続性とは、市川雅が「モザイク状」と形容し、土方巽が「不具性」、「仮設する体」という言葉とともに体現しようとした自己(近代的主体)の解体および身体の再統合への視点を、日本のコンテンポラリーダンスにおける、「ブリコラージュ的な手法」を可能にする現代的身体観に重ね合わせることで見いだされる。土方が、日本人の肉体について、「複数の指揮者に指揮されていて雑音を持っている」、それゆえに「日本人は雑音だけで素晴らしいハーモニーを作ってしまう」(土方ほか1977:127)と言っているところを真に受ければ、日本のコンテンポラリーダンスは自ずと西洋近代に対してアイロニカルな様相を現す。

 武藤大祐は、日本のコンテンポラリーダンスに見られた「アイロニー」について、1990年代に輸入された西洋圏のダンスが逆説的に突き付ける、日本における経済的、文化的に「『貧しい』現実」によって動機付けされた「商品としてのスペクタクルのパロディ」だと指摘している。つまりここでは、日本のバレエやモダンダンスに見られたような、西洋の文化へ自己同一化していくという受容のあり方ではなく、そこで体感されたコントラストによって、ヨーロッパ型の劇場芸術におけるスぺクタクル産業のあり方についての批評的視点を得るとともに、このようなスペクタクルの制度に対して自分たちが立脚する日常性のリアリティによって対抗しようとする反動性が立ち現れる。その戦略的なアプローチとして「『真正な』文化の流用・盗用および再文脈化という受容の形式」が選択される。

 〔……〕ダンサーの身体は明らかに「スター」ないし商品化という圧倒的な後期資本主義の「外圧」との緊張関係において扱われているのだが、重要なのはそうした意識が「貧しい」現実と日常の身体を相対化する政治的な視座をも可能にしている点に他ならない。彼ら彼女らの表現には日常を構成している社会への多かれ少なかれ批判的なリファレンスがあり、日常性なるものはアイロニーの回路を経ることによって初めて扱うことが可能になる。つまり自己を外側から捉える視点が確保されているということである。したがって、その主戦場はあくまでもスペクタクル装置の中、いいかえれば可視的な表層であって、「日常」の身体などとはいっても、専らそれは視覚的な記号の形をとってスペクタクルの機構の只中に射出されることになる。

(武藤2016:71)

 武藤は、このような手法がより顕著に現れた例として伊藤千枝、近藤良平、井手茂太という振付家を示し、一方で上記における「外圧」の希薄化に伴い、身体が「可視的表層」から「不透明な内部空間」へと移行する動向の変化(矢内原美邦、白井剛、手塚夏子を例示しつつ)についても言及している。ここでは詳説しないが、このような変転の背景について、武藤が述べるところを引用することだけしておきたい。

 伊藤千枝や近藤良平らのアイロニカルな日常から、矢内原や白井の不透明な内部空間へ。身体は視覚的なものとの戯れを止め、内向性へと傾斜しつつ、体感をフォルムに従属させない新たなダンスを獲得するに至った。しかしこの一連の推移が、89年以降の世界と日本の政治・経済・文化にまたがる状況の変化、とりわけ冷戦終結後の諸領域におけるグローバル化の加速への反動と、バブル崩壊後なだらかに下降線を描き続ける日本の経済状況とを、受動的に反映してしまっていることも確かだといわねばならないだろう。個々人の身体が扱い得る「世界」の規模がますます縮小すれば、その分だけスペクタクルの支配は密かに拡大していることになる。もともと「外部」との緊張関係において把握されていた「日常」の身体が、内在にこだわることで非フォルムのダンスを獲得する時、それは(いささか逆説的にも)身体が政治的な意識を喪失しつつある危機的瞬間でもあるのだ。

(武藤2016:74)

 話が迂回してしまったが、ここで指摘したいのは、日本のコンテンポラリーダンス黎明期における舞踊家の質である。國吉和子は2005年当時のダンスシーンにおける状況について、「舞踏の終焉」における舞踏家、そして「共通の技術を基盤として、ひたすら自らの作品世界を深め、洗練することが自身のダンスの目的となった」現代舞踊協会が率いる舞踊家の勢力にコンテンポラリーダンスを対比させ、まずは「多様であること」を指摘しながら、これを次のように分析している。

 1980年代後半から1990年代にかけて、雨後の竹のように生まれたダンサー達は、特定の技術を共有していない。むしろ、了解された技術の外から参入した人々である。したがって、既存のダンス概念などに囚われていない。身体による一つの表現としてダンスと出会っている人々である。あるいはダンスという完成されたイメージを持たないまま、身体表現の可能性に魅せられた人々であるともいえるだろう。

 ここでコンテンポラリー・ダンスの多様性という点に話を戻すと、この多様性は「複雑系」とも言い換えられており、ある一定の脈絡で統制されている全体ではなく、個々の現われがお互いに関係なく突出している現象が多様なのであり、ダンスの内容を指してその多様性を特徴づけているわけではない。そして、この多様であることは、再現的、物語的なモダニズムの後にきたポスト・モダンダンスの徴候として、積極的に評価されようとしている。

 しかしながら、このような俯瞰的見方によって、現代のダンスの問題を指摘することはできない。むしろ、このような状況的な視点しか持ち得なかったことが、現在の雑駁に飽和した状況をつくりあげてしまった要因とさえ考えられるのだ。

(國吉 2005:215)

 長々と引用してしまったのは後半の議論が本稿において意味を持つからであるが、ここでは担い手の質について言及された箇所を引き取り話を進めたい。2006年から私の勤め先であった小劇場die pratze(現在のd-倉庫の前身)では、毎年「ダンスがみたい!新人シリーズ」というダンス・コンペティションを行っており、2020年現在までで18回を実施している。毎回約30組程度の「自称新人」による作品を上演する催しであるが、2006年の時点ではバレエ、モダンダンスなどのダンス教育を受けていない舞踏やパフォーマンス寄りの、どこから来たのか分からないような参加者というのが目立っていた。しかし年々この割合が減少し、大抵はどこかのスタジオで先生についているか、体育大の舞踊科でコンテンポラリーダンスを修めたというダンサーの作品群が殆どを占めるようになった。この背景にはコンテンポラリーダンスの台頭と足並みを揃える形で大学での舞踊学科の開設や、既存学科においてコンテンポラリーダンスのクラスを新設する動きがあった。舞踊の大学が未だ存在しない日本においては、舞踊に特化した教育の場というのは成立しないものの、実践的、理論的に一定の訓練によって、コンテンポラリーダンスの舞踊家を育成する道筋が貫通したことになる。これにより、2000年代中頃には桜美林大学、日本女子体育大学、日本大学芸術学部などを中心にして、大学から多くのコンテンポラリーダンスの舞踊家が輩出される状況が生まれた。すでにこの時点でコンテンポラリーダンスのシーンは、1980年代にパフォーマンスや舞踏に向けられていたような未分化な身体表現(あるいは芸術制度の解体)欲求の受け皿としてあるのではなく、舞踊家の舞踊分野の選択の一つとして一般的普及の方向に向かっていたと思う。ゆえにこの時期の世代交代において、コンテンポラリーダンスの担い手の質はガラリと変わっていった。別の見方をすれば、このような(正統的)コンテンポラリーダンスの軸は1990年代後半から2000年代前半にかけた状況の中にもあったが、それは多様性の一端として存在していたのだ。2010年代にかけてはそれ以外の勢力は次の世代へと役割を渡すことなくやめてしまうか、あるいは別の芸術分野へと移動するなどして減少していった。結果、幼少期からの舞踊教育(訓練)を前提にしたコンテンポラリーダンスの舞踊家が主勢力となったのだ。

 2010年代ころから台頭してくる新世代も一枚岩ではないが、全体的な印象を列挙すると、2000年代のコンテンポラリーダンスのイメージや手法を踏襲しながらも、主に外形的洗練に向かっていること。西洋近代への警戒感(というか関心)が希薄化すると共に、西洋芸術の受容形式や、そこでの身体性なるものに無頓着になって見えること。反舞踊的な解体志向は減退していること、等々。そして重要なのは、形式主義的状況への傾斜であり、先の木村の言及の引用にて示されていたような日本のコンテンポラリーダンスにおける「ブリコラージュ的手法」が、逆説的に示したアイロニーなるものが、あっという間に摩耗してベタ化してしまったということだ。それはこの世代に限らず、コンテンポラリーダンス全般に感じられたことである。また、その出発においては極めて個人主義的でバラバラな<個>の現れとして生じたコンテンポラリーダンスの局面と比較して、2010年代以降の若手の動向には一種の連帯感がある。その中心にいるのは北尾亘が主催するダンスカンパニー Baobabであり、自ら開催するダンスフェスティバル「DANCE×Scrum!!!」(2016年~)において同世代をネットワーク化するような動向が求心力を得ている。その連帯とは、先行世代に対する抵抗とも、理念を共にする協働とも異なり、ある種の相互扶助と、実践上の影響関係の構築を期する活性化といった、極めて現実的な目的に根差した連携として解釈される。批判的に見れば同時代性という、いかようにも解釈できる空白の共同性の産物とも言えなくはないが、舞踊批評が後退した今日において、実演上の動機や価値なるものが、これまでとは全く別の方法でそこに形成され始めているという妄想も沸き起こる。

 批評ともマーケットとも切断された日本のコンテンポラリーダンスの現在地においては、従来的な評価/成果のベクトルはほとんど失効している。これに伴い、ダンス作品を介し、あるいはそういった枠からも外れて何らかの社会的局面や共同体へ直接的に関わるようなコンテンポラリーダンスのアプローチに関心が高まる。美術の文脈で言えばソーシャリー・エンゲージド・アートとった概念に包摂される動向であるが、ここでも、アートとそれが扱おうとする対象との非対称性、つまり芸術行為が及ぼす特権性というのが問題含みになってくる。こと公共事業というフレームで(何らかの政治的な立場を代行する形で)動員されるアーティストの存在というのは危うい。このような働きかけは往々にして社会的に追い込まれた立場の人々、つまり何かしらの問題を抱えた共同体に向けられるものであるからだ。そしてこのような図式は現代アートとしてのコンテンポラリーダンスと伝統的文化の関係にも観察される。

 アジア圏のコンテンポラリーダンスに刷り込まれた、極めて屈折した近代的主体概念に対し、積極的に議論を仕掛けているのが武藤大祐だ。武藤は現代のコンテンポラリーダンスの振付家が「複数の主体や文脈を取りまとめる『ファシリテーター』としての性格を持つようになった」とするスーザン・リー・フォスターの言説を引きつつ、しかし舞台芸術における振付家は依然として特権的な個人として全体を統括する立場にあり、その意味で「近代的な『作者』の枠組みを脱してはいない」と指摘する(武藤2015:127)。いかなる文化的他者を扱うものであっても、シアターアーツとしてのコンテンポラリーダンスは原理的に植民地主義の装置となり、対象を自らの文脈ないしは作者に帰属するものとして(つまり西洋の枠組みの中に)吸収してしまう。舞台芸術における多文化主義的な手法は、「主体の側の文脈において他者を理解し、客体化」するとともに、「運動性を備えた主体と、運動性をもたない客体の関係の生産」となる(武藤2015:131)。これに対し武藤は、双方の文脈が有機的に接触するような実践的アプローチとして、日本の伝統芸能に関心を寄せるアーティストやダンサーが、民俗芸能の実践共同体に参加する形で、芸能を「習う」プロジェクトの展開に注目する。

 創作のための取材、技術の習得、さらには政治的なコミットメントとして、民俗芸能に向き合うアーティストは少なくない。しかし昨今目立つのは、衰退する芸能を支援するために、「習う」という実践そのものをテーマとしたプロジェクトである。

(武藤2018:88)

 このような局面において、「作品」および「上演」といった成果物は、あくまでプロジェクトの一要素として扱われる。より重要になるのは、アーティストやダンサーが、異文化のコミュニティに参加を試みる際の、関係構築のプロセスであり、そこでの交流が双方のフィールドに引き起こす「互恵的」かつ「双方向的」な変化である。ここで、「『習う』という実践」による交流が大きな意味をもつ。武藤が言うところの「作り手の消滅ということは、つまり介入している当該のコンテクストの中に吸収されるということ」(武藤ほか 2016:163)、これが意味する通りの形で、そのアプローチは、アーティストやダンサーが外部からの取材者ではなく、コミュニティにおける「新参者」として参加することから始まる。また、このようにして得られた<成果>を、アートプロジェクトとして外部へ(非当事者へ)向けてアウトプットする際の手つきにも、従来とは質的に大きな違いを見せている。その最もクリティカルな事例として紹介されるのが、ウェールズ出身の振付家・ダンサーであるショーネッド・ヒューズが岩手県の柿内沢鹿踊保存会と共同で実施したプロジェクト《Odori-Dawns-Dance》における、《Niwa-Gardd-Garden》の上演であろう。このプロジェクトも上記の説明と同様に、ヒューズと実践共同体との濃密なコミュニケーションのプロセスからなるものである。そして、《Niwa-Gardd-Garden》の上演は以下のような手法で試みられる。

 直ちに見て取れる特徴は、モダンダンスやコンテンポラリーダンスでしばしば行われているように、既存の舞踊形式に外から異質な要素を付加したり変形したりせず、鹿踊そのものについての知識を観客に与えることから出発し、そして最終的な到達地点もまた伝統的な鹿踊だという点である。

(武藤2020:178)

 この上演は「作品」としての輪郭も曖昧化されている。伝統的な踊りとそのデモンストレーションが全体の大部分を占め、創作の割合は明らかに低い。〔……〕上演中に出演者への指示が行われたり、観客の前で装束を付ける作業が行われるなど、いわゆる「オン」と「オフ」の境界も定かではなく、どことなくインフォーマルな雰囲気が終始漂っている。さらに資料展示などによってこのプロジェクトがヒューズと保存会との継続的な交流に基礎を置いている事実が示され、観客が単に作品だけを切り取り、そこに審美的な眼差しを向けることを難しくしている。

(武藤2020:179)

 このような上演の方法により、「舞踊を単なる形式としてではなく、ある持続的な社会集団の生の営みとして理解する努力を促す」(武藤2020:179)。つまり、当該の芸能実践が、それを包摂する文化的土壌と不可分な形で、非自律的に存在していることを、そのままに提示する。そして、この手法を可能にする「作者」の上演に対する統制のあり方(作者性、作品性の希薄さ)は、モダンダンスやコンテンポラリーダンスの「作品」と性質を異にし、ここに西洋近代的な「芸術」の制度を相対化する地平が示されている。

 また、以上のようなプロジェクトの手法が、<伝統>的なものと<現代>的なものを分割する近代的な問題系に向けて意味するところについて、ヒューズの事例に沿って武藤は次のように論じる。

 共同体は、正統的な(認可された)新参者と熟練者の交渉のもとで、再生産され、また変化して行く。したがって不動の中心はなく、それゆえ誰もが「ある程度は『新参者』」ということになる。このような視点から見る時、伝統芸能を単に<取材>して持ち帰り、作品の素材として<使う>アーティストたちと、伝統芸能の実践共同体に「参加」しながら活動を展開するヒューズとの差異は一層鮮明になるように思われる。すなわち前者は現代芸術の実践共同体の同心円を携え、その中心に位置するが、他方で伝統芸能の実践共同体に参加してその周辺的な位置を占めることはない。つまり関係は一方向的である。それに対し、ヒューズは伝統芸能の実践共同体において「正統的に周辺的」な立場にあり、だからこそ現代芸術の実践共同体の方に伝統芸能の担い手が「正統的に周辺的」な立場で参加するという、双方向性を得ている。この双方向性が決定的に重要と思われるのは、単に互恵的な(ギヴ・アンド・テイクの)契約が倫理的に成立するからではない。そうではなく、伝統芸能と現代芸術という二つの実践共同体が互いに限りなく接近すれば、両者は重なり合い、さらに何か第三の共同体へと変転を遂げることになるかも知れないからである。

(武藤2018:170)

 現代と伝統の断絶が意味するのは、伝統的な生活文化(あるいはその規範)との断絶である。当然のことながら、伝統芸能がある前にそれを必要とする人々の生活がある。それゆえに伝統はその基盤となる日常と共に更新されていく。その意味で、静的に保存された伝統芸能と、特定のコミュニティで動的に息づいている伝統芸能は似て非なるものだ。そして、後者の伝統の内実は、それを担う人々の文化や生活様式の変化と密接に結びつき、社会状況の移り変わりに適応し(また抗うことで)、流動性を保ち、完成しないがゆえに、コミュニティの内部で実際的な機能をもつ[9]。その外形を現代芸術の枠組みで普遍的なものとして見つめる行為は、まさに近代のコロニアリズムに他ならない。しかし、日常の生活と伝統芸能における生きた回路が保たれてきた共同体においても、少子化による芸能の継承者不足や、地域の人口減少といった問題に晒される中で疲弊し、多くが衰退へと傾いている現実がある。原理的に言えば、現状の変化に対応する勢力と、従来のやり方を守ろうとする勢力の対立と妥結が伝統を伝統として更新する。武藤の議論では、このような共同体の伝統のダイナミズムが退行している場面において、現代芸術にとっての参加/介入の余白が見いだされている。そして、武藤が言及する「第三の共同体への変転」というものがもしあるとすれば、それは現代芸術の実践共同体がこのような新しい実践のコンテクストに自ら「吸収」されていくことによって、また、伝統芸能の実践共同体が外部から付与された新しいコンテクストを戦略的に流用することによって可能になる、新しい社会的局面のことではないかと思われる。

 思うに、肝要なのは現代の伝統という構築主義的な視点だ。前段の議論を引き継ぎ、伝統が当該共同体における価値の可変的体系についての観念であると考えれば、あらゆる共同体において伝統というものを思考することができる。近代が日本人の生活様式や身体性を大きく変形させたことは確かだが、人々の生活における伝統生成の動力が失われたわけではない。本質主義に陥らず、現代の伝統への積極的な参加によって、近代とは別種の時代性を捉えることができるようになるのではないか。そして現代のアーティストは、所与のアイデンティティを自ら相対化に晒す現場に入っていくことで、現代の伝統との有機的な関わりあいが可能となる。

 本稿冒頭、コンテンポラリーダンスと現代舞踊における舞踊家のアイデンティティの不確かさ、ということに言及してその要因として歴史観の喪失を指摘した。これをいくつかの角度から検討してみたい。

 アイデンティティ(=主体)を確定しようとする自己統一への意思は、主権や自立(自律)といった政治的な力の概念と密接に結びついている。そこで考えなければならないのは、そもそもコンテンポラリーダンスの主体とは<わたし>なのか<われわれ>なのか。そして、コンテンポラリーダンスに共同体は必要であるか。舞踊家が今、大きな運動としての連帯を期するのでなければ、それはいかなる理由で構想されうるのだろうか、等々。アイデンティティを問題化する以上こうしたことにも無関心ではいられない。本稿に設定した日本の現代の舞踊における「アイデンティティの不確かさ」とは端的に、自己同一化の対象となる歴史および共同体の曖昧化ということを意味するに過ぎず、重要なことは、その向こう側をどのように創造的に展開できるかであることは言うまでもない。また、前述の伝統にかかわる議論を言い換えて繰り返す形になるが、仮に現代の舞踊がアイデンティティの喪失に直面しているならば、それを補填することで直接的な解決を求めるよりは、むしろ、その不安定を逆手に取ることによって、自らの土俵と職能そのものを展開し、共同体や、歴史観、そしてアイデンティティの真正性を巡る闘争の局面に対し、様々な介入のケーススタディを社会にもたらす可能性を拓くことができる。

 思考の取っ掛かりを得るため、ボリス・グロイスのいささかシニカルな言説を強引ながらここにねじ込んでみたい。グロイスによれば、まず芸術とは「世界を変えようとする試みが芸術家によって定期的に行われる場」であり、それを実現するために芸術家が使用してきた戦略について、芸術がいかにして人々の住む世界に影響を与えることができるか、という問いを仮設する。そして、これには2つの回答がある。第一の回答は「メッセージの生産」であり、以下のように説明される。

 芸術が掌握できるのは想像力であり、だからこそ芸術は、人々の意識を変えることが出来る。そのように変化した人々が自分の世界をも変えていくだろう。ここで芸術は、それを通じて芸術家がメッセージを送ることが出来る、一種の言語として想定されている。〔……〕言うなれば、これは芸術を観念論的に捉える理解であって、芸術を宗教に似たものと理解し、また宗教が世界に影響を与えるのと似たようなかたちで、芸術の影響力を理解するものである。

(Groys 2016=2018:28)

 そして、時代に伴って宗教における共通の信仰が失われたところで、「宗教的共同体は、芸術家と観客が共に参加する政治運動へと取って代わった」。したがって、これは政治的プロパガンダとして使用されうる形をなす。しかし、歴史的アヴァンギャルドはこのような「理解される」という形で受容される芸術作品のあり方、そして自ら参加することを前提とした共同体構築のアプローチをとらない。第二の回答は以下のことである。

 芸術家と観客は言語を共有していなくても、物質的な世界に住んでいるという点で共通している。特殊な技術である芸術が目指すのは、観客の魂の変化ではない。むしろ、これらの観客が実際に生きている世界の方を変化させるのだ。そして、そうした新しい環境条件に慣れ親しんでいこうとすることで、観客の感性やふるまいが観客自らによって変えられていくのである。マルクス主義の言葉で語るなら、芸術は上部構造の一部と見なされるのか、それとも物質的基盤の一部と見なされるのか、言いかえるなら、イデオロギーと見なしうるのか、技術とみなしうるのか、という問題である。

(Groys 2016=2018:30)

 ここでのアヴァンギャルドの最終目標とは「歴史的発展の最終段階」として構想されるユートピアである。しかし、技術への介入によってこれを企てるアバンギャルドの芸術と、方向性や最終目標を持たない「技術の進歩」が持つ本質的特徴とのあいだに齟齬が生じるようになる。アヴァンギャルドが夢見たのは変化を必要としないユートピア、つまり「進歩を止める」という意味での技術への関与(協働)が目指されていたのだ。同テクストでは続いて歴史的アヴァンギャルドの目論見が今日的にどのような状況を迎えているかについて論じられるがこれは割愛する。ここで注目したいのは、このように示された二つのアプローチが「世界における個人の行動の可能性と限界を明示するものとして」試みられたのだというグロイスの視座であり、これについて論じる次のような分析である。

 そこでの方法は二つであり、一つは説得によるもの、もう一つは環境への適応によるものであった。これらの選択が両方とも前提としているのは、観客と比較した時に芸術家の側が持っている視覚の過剰と言うべきものである。伝統的に芸術家は、「平均的な」「普通の」人々が見ることのできないものを見ることができる非凡な人と考えられてきた。この視覚の過剰は、イメージの力や技術革新の力によって観客に伝えられるはずだった。ところが、インターネットの条件の下では、視覚の過剰は、アルゴリズムのまなざしの側にあり、もはや芸術家の側にはない。

(Groys 2016=2018:36)

 ソーシャルネットワークの爆発的普及により、すべての人がなんらかの芸術的活動に従事しているような状況が生まれた。ここでは、「すべての人が他者のまなざしとの複雑な遊戯に巻き込まれている」のだが、芸術家は歴史的にこのような遊戯に関わってきた経緯を持つ。つまり、芸術家と大衆が同一のゲームに対等な条件で参加している状況が立ち現れる。ここに芸術家が自らモデルとなる第三の戦略が見出されている。

 通常、芸術的な実践は、個人的で私的なものと思われている。しかし、ここで言う個人的や私的といった語は、何を意味しているのだろうか?〔……〕ここで重要な点は、他者といかに異なっているかではなく、自分自身といかに異なっているかということである。つまり、自己同一化に関する一般的な基準に合わせて同一化することを拒否するという点である。〔……〕すでに長い間、近現代の芸術家は、他者が自分たちに押し付けてくるアイデンティティに対して反抗してきた。〔……〕つまり近代および現代の芸術をめぐる政治は、いかなる同一化も拒む政治なのである。よって、芸術は観客に語りかける。私はあなたが思っているような者ではない、と(さらに、私が私であることすらも拒む残酷なノーをも示す)。ここで言及した、アイデンティティをもたない状態への欲望、すなわちアイデンティティの無への欲望は、実際のところ真に人間的な欲望である。動物は自分のアイデンティティを受け入れるが、人間は受け入れない。私たちが芸術や芸術家の模範的かつ典型的な機能について語ることができるのは、この意味においてである。〔……〕そして、インターネットがアーカイヴとして最も興味深く思われるのは、それがユーザーに提供するカット・アンド・ペースト操作を通じて、まさに脱-コンテクスト化と再-コンテクスト化を可能にしている点である。芸術家を歴史的なコンテクスト自体へと引き込むのではなく、むしろそこから引き離していくアイデンティティの無への欲望に対して今日の私たちはますます関心を寄せるようになっている。

(Groys 2016=2018:38-9)

 「近代および現代の芸術をめぐる政治は、いかなる同一化も拒む政治なのである」という言及は、まさしく西洋という地理的な条件を前提とした仮説である。いうまでもなく、日本の近現代の芸術舞踊の姿とはそのような仮説に向けられた日本人の視線を反射したものとして捉えなければならない。日本の現代舞踊は明治期以降の国民国家という概念的基盤に立脚して立ち現れたものだ。そして日本人は自ら西洋を模倣することで世界史への参加資格を(そして、主権を有する国家の姿を)得ようとした。戦前と戦後の質的な変化(日本における建国の基準をどちらに置くかという点で)を看過することはできないが、他者の自己形成のフレームワークに抱きこまれるかたちで自らを育んでいったことには違いない。そのため、日本の近現代舞踊は国家的および民族的な存在証明の回復(あるいは再統合)といった西洋近代への抵抗を、西洋から輸入された制度的基盤の上で行わざるを得ないというアンビバレントな状態に陥る。そしてこのような構造が、近代以前のあらゆるコンテクストを対象化し、現代から切断した。このような自作自演のコロニアリズムにおいて、ナショナリズムへの憧憬は水面下で肥大化する一方であった。日本らしくあらなければならない、日本独自であらなければならないという声は今なお無批判的に呈されるが、これは芸術的戦略としての「同一化を拒む政治」の全面的な敗北宣言のようなものだ。では、そもそも成り立ちにおいて日本の近現代舞踊は負け戦に身を投じていることになる。そこに正史を見出そうとする行為はあまりにも素朴だ。

 土方巽の舞踏はそうした近代における暗黙の前提(ルール)を、一旦引き受けることで姿を成し、時代に形を与えた。《土方巽と日本人 肉体の叛乱》が上演された翌年、宇野亜喜良との対談で「モダンなものを否定することによって逆にモダンになる」(土方・宇野[1969]2016:25)と土方が漏らす場面がある。1960年代前半の<反芸術>的パフォーマンスから1970年代の《四季のための二十七晩》への急転換は、反近代という目論見こそすぐれて近代的であることのアイロニーを自覚した土方の戦略修正、つまり近代の超克から時代意識の戦略的攪乱への転回として理解することができる[10]。そのため、土方の舞踏が日本の歴史的風土や伝統の復権を意図する復古主義を意図していたとは思えないし、結果的にそのような結果をもたらしたとも思わない。土方の成果とは、日本と西洋を選り分けてどちらかを選択しなければならないとする強迫観念、乱暴に言ってしまえば二律背反の植民地的感性を流動化させた点にあった。大正期から始まった日本の現代舞踊における劇場が、人間の(または日本人の)普遍なるものに形を与えようとする場であったのに対し、土方における劇場に至っては、近代日本という観念的束縛を相対化し、<われわれのありうべき姿>に形を与え、観客にイメージを提供することで思考可能なものにする、そのような場であったと見なすことが出来る。それらは内実を異にしながらも、劇場芸術という社会的切断の儀を通して可能となる、共同体における<あたらしい幻想>の生産である。そして、これらの試みはすぐれて個人による共同体への挑戦として立ち現れてきた。ここに再度グロイスを呼び出す。

 近代国家は力の均衡を究極目標として宣言するが、もちろん、これを真の意味で達成することはない。それゆえ近現代芸術はその全体性においてユートピア的な力の均衡のイメージを提供し、国家の不完全な均衡力を超えようとする

(Groys 2008=2017:11)

 あらゆるイメージの美学的平等性が確保される場所として美術館を論ずるグロイスの議論だが、ここではその論旨よりもコンテンポラリーアートの政治性に関するグロイスの認識の方に注目したい。つまり本稿ではここまで批判的に言及してきたところの、芸術の自立性を論拠として可能と見なされる現代芸術の政治性について、改めて考えを巡らせてみたい。コンテンポラリーダンスの芸術的実践、ないしはこのような劇場芸術という制度の中で実現する「ユートピア」なるものが、現実の世界をどのような形で変えることができるのか、あるいはできないのか。この前提を自明とし、現実世界の縮図として劇場空間を仮構することは今日ではイリュージョンと見なされている。作家、作品を頂点としたヒエラルキーの解体という現代的なアプローチもこの困難を免れない。こうした手法においては、作者(芸術家)がいかにしてその特権性を手放して作品に関わる者に平等な環境を築くかという暗喩的な物語を通して観客に語り掛ける。私たちは美しい作品世界が築かれる裏側に、無秩序な不均衡が存在することを知っている。よってそのような作品は、イリュージョンを支える現実の方を主題化することで、社会的現実との折衝を失った劇場空間に向けられる懐疑的な眼差しとの調停を試みる。むしろこのような芸術的実践上の不平等の是正(その主題化の試み)は、最近の日本の現代演劇がポリティカル・コレクトネスの突端であろうとする方向性に接近していると理解される。そういえば、劇団活動における稽古や公演を労働と見なし、元劇団員に対して未払い賃金と慰謝料の支払いを命じる東京高裁の判決があったと、つい先日報道にて知らされたところだ。小劇場演劇における集団性の幻想が廃頽したことを象徴的に示すようなこの判決(というより訴訟)は、近年の現代演劇に共有されている価値観が端的に込められたものであったと思う。ダンサー、振付家の職業的自立がかねてからの祈願であるコンテンポラリーダンスの現場にも同じ志が認められるだろう。今日の劇場における政治的実践は、芸術家やその集団が自らを社会的規範にすることを目指し、その妥当性の水準を芸術の外側に見ているのだ。ここに現実社会とのきわめてリアルな回路が構築されている。裏を返せば、劇場空間に貼られた免罪符は引きはがされ、聖域としての劇場空間の超日常性は、今日においてはごく限定的にしか承認されない。それこそ、今となっては土方巽のやっていた封建的師弟関係の構築などもってのほかであろう。日本の舞台芸術はプラグマティックな動機にもとづいてリベラリズムと並走している。その場所は、普通の社会的正義を、普通に語ることが出来るという正義の実現可能性にかけた場となるのだ。これに比例して(あるいはそれを準備する形で)芸術的実践のラディカリズムは急速に減退する。しかしそれゆえに、このような抑圧的な条件においては、正義とは異なる位相で、今日の舞台芸術および劇場における芸術的実践を経由した反抗のラディカリズムこそが極めてリアルな実効性を帯びて存在しえるという、あたらしい地平が浮かび上がってくる。歴史の反復に過ぎないとする批判は免れないだろうが、そのような両義的な場が、劇場空間を取り巻く社会的状況によって作り出されていると理解できよう[11]

 ここで、日本のコンテンポラリーダンスにおけるアイデンティティの欠如をいかに考えるかという当初の問いに立ち戻る。また、あらためてグロイスが言及した「いかなる同一化も拒む政治」を参照しておきたい。まず立ち上がる問いは、ユートピアとしての劇場空間という今日では楽観的ともとれる芸術的戦略が有効であるのかということ。そして、日本における社会と個人のアイデンティティをめぐる政治に関係して、そのような場はどのような役割を果たせるのかということ。

 もはや、日本の近代を欺瞞や矛盾と見なし、その歪みの継承をもって現代がどうであると四角四面に批判を繰り返すことは言説的に実効力を伴わなくなっている。むしろ、それどころかコンテンポラリーダンスの現場でもいまだ当たり前のようにナショナル・アイデンティティの称揚が散見される。グローバル化において減退するとみなされていたナショナリズムは予測を裏切ってむしろ今日ではいきいきとしている。繰り返しになるが、伝統とは基本的に<今、ここ>で共同体の営みに内在する動的な伝統(現代の伝統)であり、現代の伝統が<空洞化>したときに参照(流用)されるのがアーカイヴとしての伝統(歴史)となる。そしてアイデンティティの問題もこれとほぼ同じ構図で考えられだろう。問題はこうしたアイデンティティの空白状態において人々は統治機構の支配下へとやすやすと抱き込まれてしまうということだ。話が前後するが、グロイスによれば近現代の芸術家におけるアイデンティティの闘争とは、まず主権者として自己同一化を行う権利を求めて、つまり「真の自己」への探求として立ち上がる。しかしこのようなアイデンティティをめぐる闘争はそのような存在の真理に関わるもではなく、個人(わたし)と社会のどちらがアイデンティティの決定に対してより強い権利を持っているのかという、力(主権)に関係する政治的な側面がより意識されるようになる。芸術家は真理としての自己を求めることを諦め、所与のアイデンティティを利用した「アイデンティティとの複雑な遊戯」へと戦略を修正していく。しかしこれも本質的には社会的に条件付けられたアイデンティティからの逸脱に向けた元来的な試みの継続であり、ゆえに近代および現代の芸術をめぐる政治は、「いかなる同一化も拒む政治」となる。また、このプロセスは真のアイデンティティ(真理)への到達を期するものではなく、「自己同一化に関する一般的な基準に合わせて同一化することを拒否する」、つまりアイデンティティという概念の機能自体を否定することであり、これを「アイデンティティの無への欲望」として理解することができる。そして、今日におけるに芸術家とは非凡なる特権的存在ではなく、「普通の人々にとっての判例や事例、代表」となるものであり、グロイスが「真に人間的な欲望」と見なすところのアイデンティティの無への不断の試みに、自らを「見本[12]」たらしめることによって形を与え、このようなイメージを社会に提供することで現実に働きかけようとする。

 日本のコンテンポラリーダンスとはバラバラな個人が、各自の歴史、動機、価値、方法といったものに根差してなされた、統一された身体的統制の基準を持たない舞台芸術の諸実践の総体を指すものとしてまず捉えられ、それは<パフォーマンス>の定義困難性に関わる文脈にも紐付けて理解できることにふれた。しかし、パフォーマンスの歴史的動向と異なり、コンテンポラリーダンスは、<ダンス/振付>を基本的な概念装置とみなし、ダンスおよび振付との類似性や親近性を(時にはきわめて情緒的な視点で)日常のあらゆる営みの中に位置付けていくことにより、再帰的にその概念を拡張していく傾向が顕著だ。これはまず日常の美学化ということで容易に理解されるものだ。ところが、この国のコンテンポラリーダンスにおいては、鶴見俊輔が『限界芸術論』で提唱したような、「純粋芸術」「大衆芸術」「限界芸術」といった区別は極めて不分明であり、それはダンサーや振付家であるための(プロフェッショナルとして社会的承認を得るための)資格や条件というものが存在せず、状況的にアマチュアリズムの考え方が支配的であることに起因する。このような特質を鑑みれば、コンテンポラリーダンスとは、ふつうに民主的な形で、かろうじて美学的に枠づけられた形で、あらゆる人が日常へ向けた政治的実践(パフォーマンス)へと参加することができる場所だという事実が重要性を帯びて浮かび上がってくる。「これはダンス(あるいは振付)である/ではない」ことへ差し向けられる解釈の無限性において、そして恐らくはどのような人間的条件も問われないということにおいて、あらゆる個人がこの実践に参加できる可能性の場としてコンテンポラリーダンスを見なすことが出来る。この場所はマーケットも批評もほどよく機能を失っており、ある種の同好的な共同性に支えられて成立する場所である。言うまでもなく、コンテンポラリーダンスへの参加は自らの生活拠点および文化的背景との離別を意味しない。あらゆる人々が、そのままに、日本のコンテンポラリーダンスという場所に正統的に登場することが出来る。それゆえにコンテンポラリーダンスという総体のアイデンティティとは、これを拒絶することにおいて正しく意味と機能をあらわす。統一された理念や形を持たないこの集合の芸術的実践は<われわれ>のものとして外側に認知されながら、厳密に<わたし>によってなされる。これはどこか、アガンベンの言う、「到来する存在はなんであれかまわない存在」による共同体と似ている気がする。以下を引用することでここでの思弁をよりいっそう無反省に進めてみたい。

 〔……〕〈なんであれかまわないもの〉は、個物ないし単独の存在をある共通の特性(たとえば、赤いものであるとか、フランス人であるとか、ムスリムであるとかといったような概念)にたいして無関心なかたちで受けとるわけではなく、それがそのように存在しているままに〔ありのままに〕受けとるにすぎない。〔……〕愛は〔事物を品質づける〕述語のすべてを余すところなく具えた事物を欲する。事物がそのように存在するままに存在することを欲する。愛が何ものかを欲するのは、それがそのように存在するままに存在するかぎりにおいてのことである。これが愛に特有のフェティシズムである。こうして、なんであれかまわない単独の存在(〈愛する価値のあるもの〉)は、けっして何ものか、あれやこれやの性質ないし本質を知っているわけではなく、あくまでも知る可能性があるということを知っているにすぎない。

(Agamben 1993=2012:9-11)

 なんであれかまわない単独者たちは、妥当させるべきなんらのアイデンティティも承認させるべきなんらの所属のきずなももっていないため、ソキエタース〔societas:社会〕なるものを形成することができないものである。じっさいにも、最終的には、国家はどんなアイデンティティ要求でも承認することができる。(わたしたちの時代における国家とテロリズムのあいだの関係の歴史が雄弁に物語っているように)国家自体の内部にあっての国家的アイデンティティですら承認することができる。しかし、複数の単独者が寄り集まってアイデンティティなるものを要求することのない共同体をつくること、複数の人間が表象しうる所属の条件を(たんなる前提のかたちにおいてであれ)もつことなく共に所属する〔co-appartenere〕こと―これこそは国家がどんな場合にも許容することのできないものなのだ。

(Agamben 1993=2012:108-9)

 「なんであれかまわない」というのは、主体の放棄によって<わたし>と<わたしでないだれか>の区別が消滅するということではない。人間存在の普遍性を示す概念ではない。存在が普遍的なものと個別的なものの「いずれかでなければならない」というかたちで認識される仮想のジレンマから解き放たれていることを指している。そのようなものに、日本のコンテンポラリーダンスは、そのための戦略があったわけでも、誰かがそう望んだわけでもなく、こころなしか似通っている。しかしそれはコンテンポラリーダンスが特定の専門性および職能に特化した場所性を否定し続ける限りにおいてそうなのだ。つまり、コンテンポラリーダンスが国家や社会に対して存在証明(ここには振付家、ダンサーといった名目上のアイデンティティも含む)を要求し定立すべき場所となった時に、その政治性は一瞬で失われる(そして現にその方向に向かっている)。重要なのは集合が実態を持たないこと。<日本のコンテンポラリーダンス>という実体の把握を常に挫折させるような形で。

 アガンベンは本質や概念なるものは個物が個物として差異化される際の基準にはならないことを指摘する。つまり個物は絶対的に非本質的なものであり、これを前提にした独自性と共通性への無差別(アガンベンはこれを無関心と厳密に区別する)が、なんであれかまわないものを構成する。それは、個別なるものを発生させる様式そのものであるような存在のことであり、よって現実存在は可能態から現実態への移行の線を行き戻りしながら変化を繰り返す、様相の限りない変化として了解されるのだ。そして、なんであれかまわないもののあり方が示すものを、コンテンポラリーダンスというジャンル(場所)の捉え方以前に、まずコンテンポラリーダンスという実践に置き換えて(ダンスや振付概念の変形や拡張という営みの中に実装されている様式と理解することで)ようやく有用な参照となりえるだろう。それをグロイスの言及する「アイデンティティの無」と言い換えてもよいと思う。コンテンポラリーダンスとは、概念装置としての自己同一性を否定する存在の可動態・可能性の名指し得ない実践の場になりえるということ。共通の志向性やアイデンティティによって統合されない持続的な営みでありえるということ。そして、それを可能にする空虚な空間が今日の劇場ではないか。アガンベンはこのような共同体のあらわれは、国家の獲得や権利を巡るあたらしい運動ではなく、国家と非国家(人類)のあいだの闘争という構図で「なんであれかまわない単独者たちと国家組織との埋めることのできない分離」をもたらすものだという。

 国家や理念という大きな物語にも、インターネット上の多元的リアリティにも一定の距離を取りつつ、現代芸術を偽装しながら、これらとは別種のつながりにかけた共同体としてコンテンポラリーダンスと劇場を見立ててみる。このような二次創作的な妄想を膨らませてみるのはどうだろうか。


 本稿は、近年の国内コンテンポラリーダンスについて関係者から聞かれる評価の傾向や、冒頭に述べた私自身の状況認識をガイドラインにして、これに関係する主だった既出の言説などを顧みつつ、今日の状況(認識)が生みだされたプロセスを歩みなおしてみるイメージで書いた。断っておきたいのは、私が斯界に関わりを持っているのは2006年以降であり、それ以前の状況理解については資料を繋ぎ合わせたパッチワーク上の知識に過ぎないこと。また、2000年代以降に行われたコンテンポラリーダンスの状況に関しても網羅的に観察していたわけではなく、あくまで東京の小劇場でいち制作者として定点観測を行っているだけであり、日本のコンテンポラリーダンスを俯瞰するような視点を提示する資格も力量も私にはないし、本稿の主眼はそこにはない。そのためここで扱ったトピックスはあくまで私の状況認識に関わるものとして恣意的に選択されたもので、そこに普遍的な視座は求めないでほしい。

 しかしながら2000年代なかば、日本のコンテンポラリーダンスの曖昧な転換期に現場に関わり始めた者の、知的に、身体的に、奇妙に引き裂かれた状況というのは、かろうじて共有可能なテーマとして汲み取ってもらえるのではないか。また、冒頭でふれた現状追認的な<問題化>の空虚さは、國吉が指摘するように日本のコンテンポラリーダンスが往々にして状況論で論じられることにより生じているのだろうし、この原稿もまさにその一端であるが、私が考えているのは問題化によって自らの「問題」を生産するという芸術の一種の生存様式が、舞台(舞踊)芸術の現場で今日的にどのようなアクチュアリティを持っているかということだ。まさに「ブリコラージュ的」継ぎ接ぎの原稿となったが、そういった議論の叩き台にでもなれば嬉しい。


[参考文献]

西堂行人(1985)「パフォーマンス――その可能性と絶えざる解体の作業」『肉体言語』第12号

Roselee Goldberg(1979)Performance: Live Art, 1909 to the Present , Harry N Abrams Inc (邦訳:中原佑介訳(1982)『パフォーマンス 未来から現在まで』リブロボード)

桜井圭介(2001)「無根拠な身体 かくも過剰で希薄なリアルについて」『美術手帖』2001年5月号

岡崎乾二郎・桜井圭介(2005)「なぜあえて、それをダンスと呼ぶのか ノイズだらけの『コドモ身体』の可能性」『美術手帖』2005年12月号

木村覚(2005)「<運動>好きの人類へ 日本のコンテンポラリーダンスをめぐる過去・現在・未来」『美術手帖』2005年12月号

土方巽・鈴木忠志・扇田昭彦(1977)「欠如としての言語=身体の仮設」『現代詩手帖』1977年 4月号

土方巽・宇野亜喜良([1969]2016)「暗闇の奥へ遠のく聖地をみつめよ」『土方巽全集Ⅱ』河合書房新社

國吉和子(2002)「テロダンス――ニブロールと黒沢美香にふれつつ」『舞台芸術』第1号

武藤大祐(2007)「反スペクタクルと無意味の狭間─2006年のダンスの状況」『シアターアーツ』第30号

――――(2015)「メッシュワークとしての振付」群馬県立女子大学紀要 (36)

――――(2018)「民俗芸能を『習う』プロジェクト」 『美術手帳』 2018年8月号

――――(2018)「舞踊の生態系に分け入る―― ショーネッド・ヒューズと柿内沢鹿踊 ――」群馬県立女子大学紀要(39)

――――(2020)「ヴァナキュラーな舞踊を枠付け直す――ショーネッド・ヒューズと柿内沢鹿踊の協働」群馬県立女子大学紀要(41)

森山直人・武藤大祐・田中均・江口正登(2016)「パフォーマンス論の現在」『表象』第10号

Boris Groys(2008)Art Power, The MIT Press(邦訳:石田圭子・齋木克裕・三本松倫代・角尾宣信訳(2017)『アートパワー』現代企画室)

―――――(2016)Truth of Art,e-flux Journal Vol.71(https://www.e-flux.com/journal/71/60513/the-truth-of-art/)(邦訳:角尾宣信(2018)「芸術の真理」『思想』2018年 第4号)

Giorgio Agamben(1993)The Coming Community, Univ of Minnesota Pr(邦訳:上村忠男訳(2012)『到来する共同体』月曜社)


[註]

[1] 参照:http://www.gendaibuyou.or.jp/about/summary(2020年10月27日最終確認)

[2] また、同協会は名称の英語表記を「Contemporary Dance Association of Japan」としている。

[3] 2013年時点。参照:http://www.gendaibuyou.or.jp/about/summary (2020年10月27日最終確認)

[4] 現代舞踊界にとって時代の並走者であった「全日本舞踊コンクール」(1939年~)では現在、バレエ、児童舞踊、邦舞、現代舞踊、群舞、創作舞踊の各部門が設けられているが、このすみ分けには大いに歴史的含蓄がある。現代舞踊部門は当初はその名称であったが、1950年に洋舞と改称され1968年に改めて現代舞踊に改称されている。これは日本舞踊界との関係性の反映でもあるが、その時代の現代舞踊家の自意識とも無関係ではない。また、創作舞踊部はやはり1950年に設置されておりその規定を「邦舞、洋舞の形式を問わず、新たに創作し10分以内に演出し得るものとし、出演者は創作者自身に限らない」としている。

[5] 「パフォーマンス」の概念についてはローズリー・ゴールドバーグによる次の定義を念頭におくべきだろう。「〔……〕パフォーマンスは芸術家による生きた芸術(ライブ・アート)である、という単純な言明以上の正確あるいは容易な定義を受けつけない。どんなに厳密な定義も、パフォーマンスそのもののもつ可能性を即座に否定することになろう。」(Goldberg 1979=1982:7)

[6] 貫成人(2001)「メイド・イン・トーキョー―日本のコンテンポラリー・ダンス」『舞踊學』第25号

[7] また2002年に「トヨタコレオグラフィーアワード」の第一回が開催されたことも留意すべきだと思う。

[8] 桜井自身による「コドモ身体」という語の最初期の使用は2003年に上演されたNibroll「NOTEs」へのレビュー(『インビテーション』2003年5月号)にて確認できる。その後、『舞台芸術』への連載「『子供の国のダンス』便り」で自作自演の対談形式にて展開。

[9] この類の指摘になんら新規性がないことは分かっている。しかし、この擦り切れた言説は歴史の過程で理不尽なほどに忘却される。

[10] 先に木村覚の言及を引いて指摘したが、2000年代の日本のコンテンポラリーダンスが継承する(と、おぼしい)戦略というのは、このような諦観に似たアイロニーに根差すスタイルである。

[11] しかし、このような前世紀的で単純な歴史進行(反動勢力の勃興)の捉え方は、1995年のオウム真理教地下鉄サリン事件における「幻想」の失効や、これを挟む二度の大震災における公共概念の再編成、そして今日の新型コロナウイルス感染症における監視社会の社会的正当化といった複層的な経験の重量によって容易に否定されるかもしれない。芸術の自立性についての問いと、1995年以降のこうした実体験から生じる社会的志向の検証はセットで考えなければならない。ここでの試みはこのような現代観のスタンダードによって思考停滞している局面に恣意的な光をあてることなので、上記の問題系に無批判的になることをご容赦願いたい。

[12] 「見本」という語をグロイスは使用しておらず、当該テクスト上では「普通の人々にとっての判例や事例、代表」と説明される概念を、後述するアガンベンの言説における「見本」と関係づけるため唐突ながら言い換えで接木しておくことにした。前段の引用にてふれたところではあるが、グロイスによれば、「インターネットの条件の下では、視覚の過剰は、アルゴリズムのまなざしの側にあり、もはや芸術家の側にはない」のであり、ここで自身の非凡な立場を失った芸術家は、その代わりに「普通の人々にとっての判例や事例、代表」となるのだという。

一方でアガンベンの言う「見本」とは、氏の著作『到来する共同体』においてのもっともエッセンシャルなアイディア「なんであれかまわない存在」のメタファーとして用いられている。
「見本は、それ自体が個物のなかのひとつの個物でありながら、他の個物のそれぞれを代表する立場にあって、すべてに妥当する。じっさいにも、一方では、あらゆる見本は実在するひとつの個別として扱われるが、しかしまた他方では、それはその個別性においては妥当しえないものであると了解されつづけている。個別的なものでなければ、さりとて普遍的なものでもなく、見本はいわば自らをあるがままの姿で見るようにさせ、その個物としてのありようを挙示してみせる特異な対象なのだ」(Agamben 1993=2012:17-8)