中島那奈子

中島那奈子 Nanako Nakajima

ダンス研究者、ダンスドラマトゥルク、日本舞踊師範。ドラマトゥルクとして国内外の実験的舞台作品に関わり、近年のプロジェクトに「劇団ティクバ+循環プロジェクト」(振付砂連尾理)「ダンスアーカイブボックス@TPAM2016」「イヴォンヌ・レイナーを巡るパフォーマティヴ・エクシビジョン」“WHEN MY CUE COMES, CALL ME, AND I WILL ANSWER” (振付演出メンファン・ワン)がある。2017 年北米ドラマトゥルク協会エリオットヘイズ賞特別賞受賞。ベルリン自由大学ヴァレスカ・ゲルト記念招聘教授2019/20を務め、「ダンスアーカイブボックスベルリン」を上演。2021年夏にピチェ ・クランチェンとの新作を台北で上演予定。編著に『老いと踊り』(共編外山紀久子、勁草書房、2019年)、ダンスドラマトゥルクの単著を執筆中。


踊らないことが出来ること

 可能なことと可能でないことは、錯綜した関係にある。そして、ダンスという芸術に携わる私たちにとって、この問いは身体をどう動かして踊るかという具体的な問題として立ち現れてくる。そして、自戒を込めて言うが、ダンサーは「踊れる」という考えに取り憑かれている。ダンステクニックや型によって身体を訓練し、稽古を積み重ねる中で、ダンサーは一つの考え方と感じ方を身につけていく。その知覚体系が完全に浸透した身体こそ、スターダンサーの身体だからだ。ピルエットや要返しが出来るまで、何度も何度も、朝から夜まで稽古する。小さな頃からの長く、そして継続した訓練によって、その人の動きの癖や身体のバランスさえ克服出来るようになる。そこには、一つの美学的な価値体系に身も心も捧げる、ダンサーのひたむきな姿がある。踊れるという目標に向かって一心に走るダンサーの姿は、どこか宗教的瞑想を思わせるほど、美しい。ただ、一つの疑念がどうしても頭から離れない。私たちは、「踊れる」ことにとらわれすぎて、踊る前から、踊りで出来る他の多くのことを、見過ごしてはいないだろうか。

 可能なことと可能でないことは、実は交換可能である。そして、社会や環境がそこで何が可能か決めていたりする。ある人ができることは、実はすでに行う前から決まっている。私たちは、実際やってみる前から、そこで何が出来るかを知っているのだ。その文化や社会の一員になるとは、そのような前提を学んでいく過程だとも言える。だから、逆に言えば、そこで「可能なこと」は、私たちより以前に、そこにすでに存在してしまっている。

 哲学者のジル・ドゥルーズは、可能なことと不可能なことの関係について書いている。可能なこと全てを現実化することは出来ない。実際、実現できる範囲内において、人は可能なことを創造する。決まった目標や計画を立てながら、可能なことがそのコミュニティの人々に準備されて提供される。もしその制度に適さないものがあれば、それは提供されず、不可能なこととなる。ドゥルーズは、この可能なものの実現と、可能なものの可能性について、思考する。この「消尽したもの」というエッセーは、サミュエル・ベケットによる、少し不気味なムーヴメントの作品「クワッド」に寄せられたもので、ここでドゥルーズは、可能なことは、それ以外の可能なことを排除することで実現すると言う。少し長くなるが、引用しよう。

何か可能なことを実現しようとするとき、人は何らかの目的や計画や選択に照らしあわせるものだ。たとえば私は外出するために靴をはき、家ですごすためにスリッパをはく。私が喋るとき、たとえば「日が射してきた」と言うとき、話相手は「そうかもしれない…」と言う。相手は私が日光を何の役にたてようとしているのか知ろうとしているからだ。「日が射してきたから外出しよう…」。言語は可能なことを言表するが、それは実現に備えてのことである。(中略)可能なことの実現は排除によって行なわれる。それはさまざまに変化する選択や目的を前提とし、これらはいつも先行する選択や目的にとってかわるからである。

 ドゥルーズは、あることを実現する以前に、人は、他の多くの潜在的に可能なことを排除してしまっているという。特定の目的や計画や選択を決めると、他の多くの可能であることは目の前から消えていってしまう。一つの目的が決まった途端に、私たちは可能である多くのことを、目の前から消してしまっている。ダンスも、「踊れる」ということも、これと同じではないだろうか。

 バレエであれ日本舞踊であれ、ダンスの様式やテクニックを持つコミュニティは、すでにダンサーが出来ることと、出来ないことを形作っている。そのため、ダンサーは振付を学ぶ時に、それを実行する前から、そこで可能なことを知っている。私たちダンサーはすでに可能だと思っていることのみを、実行している。可能であることは、すでに決まった型として与えられていて、それは特定の目標を目指した、美的な価値体系のもとに定められているのだ。そして私たちは、それが可能だとされていない状況で、出来るかもしれないことを、自分たちの視界から消しさってはいないだろうか。

 もし、可能でないことの可能性を試そうと、その体系の外側に出ようとすると、「ダンス」でなくなってしまう。踊れなくなってしまう。これが私たちダンサーの運命なのかもしれない。訓練されたダンサーは、身体的にも、美学的にも、そして思考さえも、この縛りから自由になることは難しい。なぜなら、私たちは「踊れる」ことに取り憑かれていて、そして、それに一生をかけているからだ。他に踊りで可能なことの膨大な部分は、私たちのダンスの枠内には見つけられないのだ。その枠の縛りを越えるには、どうしたらいいのか。ダンスとは何か、踊るとはどういうことなのか。ダンサーとして、踊りを超えていくことは可能なのか。

 「踊れる」の反対は、「踊れない」ではない。それは「踊らないことが出来る」であって、それまでの踊りの枠を受け止め、そこから超越していく力である。