越智雄磨

 ダンス研究者の越智雄磨さんには、ダンスと「近代」に関してのテクストをお願いしました。とはいえ、近代というテーマはあまりに大きすぎるもので、短い文章に全てを詰め込むことはできません。そこで、児玉から越智さんへいくつかの質問を投げかけ、それに応答していただくという形でこのテーマにアプローチできればと思っています。


越智雄磨 Yuma Ochi

愛媛大学法文学部講師。日本学術振興会特別研究員、パリ第8大学客員研究員等を経て現職。博士(文学)。専門はフランスを中心としたコンテンポラリー・ダンスに関する歴史、文化政策、美学研究。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館において開催されたコンテンポラリー・ダンスに関する展示「Who Dance? 振付のアクチュアリティ」(2015-2016)のキュレーションを担当。編著に同展覧会の図録『Who Dance? 振付のアクチュアリティ』、単著に『コンテンポラリー・ダンスの現在―ノン・ダンス以後の地平』(2020)がある。


ダンスの(反)近代

#1  (2020/10/1 up)

児玉:

 このテーマを私が選んだのは、いわゆる「舞踊史」というものが、「近代」とよばれる時代区分とほぼ時を同じくして始まったという事に対する興味ゆえです。つまり、近代におけるある種の思考の形式が、ダンスという実践を歴史的に語ることを可能にした、という風に思っています。近代という概念自体、確固とした定義がなく様々なアプローチが可能なものではありますが、ダンスとの関連で近代を考える、もしくは近代との関連でダンスを考えるということができるような気がします。

 まずは前提を共有するために、「近代」という概念とダンスの歴史的な関連について、越智さんの見解を少し伺えますでしょうか?

越智:

 たしかに、近代的な見方がダンスの歴史を眺める上で、強い影響力を持っていると思います。そして「近代」という時には自ずと西洋中心的なるものが含意されているとも思います。ちょうど、17世紀にフランスではバレエの礎となる王立舞踊アカデミーが設立され、その後「コレオグラフィ」という舞踊記譜法も開発されることで、ダンスが国家的な制度のもとに、分類・整理、記録されるということが始まりますので、近代以降に西洋のダンスの歴史というものがくっきりと痕跡を残しているという印象は受けます。

 近代を近代たらしめている条件について様々に言われますが、たとえば、資本主義・科学・テクノロジーの興隆、宗教的権威への異議申し立て、絶対主義国家から近代国家への移行など、様々な点で、人々の世界の認識や習慣に大きな変化が起こったということが大きな要素としてあります。先に述べたダンスの分類、記録も、近代に起こった博物学的な「分類」という観点が強く影響を与えていると思われます。同時に、このような変化とともに、歴史的に先行するものや過去を否定し、それを批判的に乗り越えつつ更新していくという「近代的」な原理が存在感を増していくわけですが、ダンスの歴史的展開についてもこうした近代的な原理が作動した進歩の歴史として展開している面があると思います。

 たとえば、17世紀の宮廷舞踊の否定として18世紀に物語バレエが登場し、19世紀にはロマンティック・バレエやクラシックバレエの登場によるバレエの舞台芸術としての洗練化が起こりますが、20世紀にはバレエ・リュスによるある意味でのクラシック・バレエの慣習の破壊と革新が起こります。また、同じく20世紀には、バレエ的な身体を不自由かつ不自然な身体として否定し、自由舞踊を踊るイサドラ・ダンカンが新しい時代のダンスの象徴的な存在として登場し、その後にマーサ・グラハムらがモダン・ダンスを体系化したかと思えば、その美学に反するマース・カニンガムが20世紀半ばに現れ、さらにその後続としてポスト・モダンダンスと呼ばれる世代がカニンガムのダンスに見られた「あらゆる動きがダンスとなりえる」という思想をよりラディカルに押し進めます。このように、ダンスの歴史は、先行する時代や世代のダンスを否定したり、批判的に継承したりすることにより更新されてきたと言えます。

 そして、この歴史的展開はダンス史が語られるときによく見られる典型的な流れでもありますが、それは西洋の劇場芸術としてのダンスの歴史であって、そこに非西洋圏のダンスは含まれていませんし、大衆的、民俗的なダンスも含まれていません。ここには、アメリカのポスト・モダンダンスと同時期に起こった日本の前衛的ダンスである舞踏が含まれることがありますが、それも良い悪いは別として、西洋近代的な「芸術」という制度から語られ、歴史に取り込まれているという面があります。

 クルト・ザックスという研究者が20世紀初頭に『世界舞踊史』という本を書いていて、そこには非西洋圏の民俗的ダンスの記述も含まれているのですが、当時の進化主義人類学がそうであるように、その見方はとても西洋中心的で、西洋のダンスは文明的・合理的で進歩の最先端にあるとする一方、それ以外の地域のダンスは文明的洗練を経ていないというような蔑視が透けて見えます。

 このような「西洋中心主義的」で「進歩」を基調とする歴史観に対して、西洋の側から批判的な見識が出てくるのは1960年代のジョアン・ケアリノホモクの論文「ある人類学者がバレエを民俗舞踊の一形態としてみる」あたりまで待つ必要があります。また、スーザン・リー・フォスターのような現代のアメリカの舞踊研究者は、20世紀のアメリカのモダンダンスにおいて、芸術作品として評価されるのは白人のアーティストによるものだけであって、有色人種のアーティストは芸術性が高いと現在の目から見て判断される作品を作っていても、民族的舞踊として扱われ決して「芸術」としてみられなかったと、反省的に述べています。ここから考えると「近代的」なダンス史というのは、ある部分ではコロニアル(植民地主義的)な観点から語られているのですが、フォスターらは、ポストコロニアルな観点から単線的な西欧近代的ダンス史を見直し、より複雑なラインの絡まりとしてのダンスの歴史を捉えなおそうとしているように見えます。

 また、フランスでも、こうした「近代的」なダンス史観の反省が90年代頃に生じたように思います。進歩史観を極端化すると、振付家やアーティストは、先行する時代にない新しさやオリジナリティを求めなくてはならないという強迫観念にさらされるという事態も起こります。1980年代のフランスの「ヌーヴェル・ダンス」は、その名の通り「新しいダンス」ですから、その振付家たちは、自分たちがどのダンスの流派や伝統にも属さないことを強調し、過去を振り返らないことに価値を見出していた節があります。そのような態度も「新しさ」を価値として称揚する近代的なるものの現れと見ることができるのではないかと思います。しかし結果として、大方アイデアが出揃ってしまったとき、さらに新しいものを作ることに困難も生じます。その反動で、1990年代のフランスではダンスの歴史上の過去の作品を反省的に見直したり、引用したりするという態度も出現してきます。


#2 (2020/11/14 up)

児玉:

 17世紀から現在に至る歴史的な経緯とともに、ポスト・コロニアリズム(ポスト植民地主義)の視点も導入していただき、大変重要なご指摘だと思います。特に、昨今世界的に大きな運動となっているBlack Lives Matter(BLM)を受けて、今後そのような視点はダンスに関わる者にとって欠かすことができないものとして、ますます重要になると思われます。

 BLMにおいても争点となるのはやはり身体である、ということができます。Netflixの映像作品で、youtubeでも全編無料公開されている『13TH』という衝撃的なドキュメンタリーがあります。そこではマイノリティ、特にアフリカ系アメリカ人の身体がいかに過酷な資本主義的システムのロジックによって法律の保護の外に締め出され非人間的に酷使されているか、そして彼らの身体に対する我々の眼差しがいかに偏見に満ち溢れているのか、ということが克明に描かれており、人間としてというより資本としての身体を激しく搾取する、資本主義社会の残酷さが露わになっています。このような負の歴史と偏見を認めることによって、初めて未来へ向けた議論のスタートラインに立つことができるはずですが、まるでそれらが実在しない問題であるかのように否定され、BLMが激しい攻撃の対象となっている現状に対しては、強い憤りを覚えずにはいられません。繰り返されてきた黙殺の歴史に抗するBLMという運動の名前には、物質/問題という二重の意味を持ったmatterという語が使われていますが、そこにはBlack Livesは抽象概念ではなく実際に存在するMatter(物質/問題)なのだ、という主張が含まれているのではないかと個人的には思っています。

 話がすこし逸れましたが、ダンスを考えるにあたっても、歴史的なメタ視点と同時に生身の身体が経験する物質的次元を無視することはできません。「近代」以降においては、個々人が自己の身体と結ぶ関係性が、自己の問題にとどまらず、政治・経済・科学といった広い領域において大きな争点となります。自らの身体をどう感じるか、またそれが観客にどう見られているか、ということはダンス研究においても重要な問題であり、そこからダンスにおけるポスト・コロニアリズムの議論が初めて可能になるのではないかと思います。

 大きな問いかけにはなりますが、見られることを意識して自らの身体を形作る、「美的な身体訓練」という側面を持つダンスの実践において、「近代」は踊る身体の経験にどのような変化をもたらしたと考えられるのでしょうか?さまざまな切り口があるかと思いますが、越智さんならどういう点を取り上げて議論するのか、とても興味があります。

越智:

 資本主義システムの中における搾取対象として身体が捉えられているということや、とりわけ黒人の存在が差別的に扱われてきたということを児玉さんから言及してもらったことで、ダンス史における有色人種のダンスの問題と現在のBLMとが接続されて、ダンスにおけるポスト/コロニアリズムのアクチュアリティがよりはっきりみえてきたと思います。

 まさに、アルヴィン・エイリーやビル・T・ジョーンズといった黒人の振付家・アーティストたち、またニューヨーク・ハーレム地区やブロンクス地区などのストリートの無名のダンサーたちはmatterとしての身体を呈示してきたのだと思います。ダンス史の観点からを振り返れば、BLM的なるものの淵源をより過去に見出すことができるのだろうとも思いました。アメリカの舞踊史家スーザン・マニングが10年ほど前に来日した時、彼女が行っていたキャサリン・ダナム[1]の日本公演についてリサーチを手伝ったことも思い出されます。マニングは、白人の母と黒人の父を持ち、黒人の舞踊団を率いてワールドツアーを行っていたダナムを再評価しようとしていました。アメリカのダンス研究においては黒人、有色人種へのアンフェアな差別的見方を是正しようとする動きは、比較的早くからあったと考えられます。

 やや話は逸れますが、資本主義システムはその中にある身体を搾取対象としているようなところがありますよね。たとえば、ジョナサン・クレーリーが『24/7 眠らない社会』で、資本主義が私たちから奪っているものは睡眠であり、私たちは起きている限り資本主義システムに奉仕していると指摘していますが、この議論を踏まえると、「眠ること」それ自体をパフォーマンスにしたいくつかの歴史的事例の意義も明確になってくると思います。たとえば、自身が眠ったローリー・アンダーソン、高見沢文雄、トラジャル・ハレル、観客を眠らせた寺山修司など。意識や理性的判断(と思われているもの)を睡眠によりシャットアウトすることは、matterとしての身体の存在を浮かび上がらせる行為だととらえることもできる。児玉さんも「ねむれないよるのうた」という作品を作られていますよね。

 本題のダンスの「美的な身体訓練」という側面と近代の関係に移すと、やはりバレエの技術的体系の礎を確立することになる17世紀のルイ14世の王立音楽アカデミーおよび王立舞踊アカデミーの設立は見落とすことのできない出来事だと思います。そのことをきっかけとして宮廷舞踊では曖昧だったプロとアマチュアの境が明確になり、プロの実演者によるプロセニアムアーチを備えた劇場で上演される芸術としてダンスが発展し始めます。宮廷舞踊では踊る場所がダンスフロアであったのが、後に続くバレエでは劇場の舞台へと変化することは、ダンスが「参加する」ものから「見る」ものへと変化したということでもあります。ダンスをあたかも客席側から絵画を見るように鑑賞することで、ダンスの演目、あるいはダンサーたちは必然的に「正面性」を気に掛ける必要性が生じます。それは、すなわち視覚的に美しくある必要性でもある。

 より興味深いのは、王立舞踊アカデミーが設立の目的が、宮廷社会の社交に必要とされるような優美な振る舞いの延長上にあるダンスを発展させると同時に、兵士の身体訓練も兼ねていたということです。つまり、国家的に舞踊を育成するアカデミーは、国家に奉仕する有為な身体を作るということを目指していたという側面があり、この時すでにミシェル・フーコーが批判的にみるような「規律訓練」による「従順な身体」と「主体=臣民」の生産がダンスに影のように寄り添っていたとも言えます。このような歴史を見てもダンスは極めて政治的なmatterですね。

 アカデミックなダンスの体系化や記号化が極端に進んだ時に生じるリスクは、本来ばらばらで多様であったはずのダンス、すなわち個別具体的なmatterとしての身体を呈示するはずのダンスが、その地域的差異や個人的な身体的差異が抹消され、画一化されることで、その生き生きとしたダイナミズムが失われてしまうということだと思います。アカデミズムの全てを否定すると、ダンスの数百年の歴史のなかで生まれてきた成果も否定してしまうことになるので全否定はできないのですが、「アカデミズム」という言葉が、アカデミーで培われてきた古い権威的な慣習やテクニックを無闇に順守する行為を批判する言葉として、19世紀の批評においてすでに使用されてたことに留意しておく必要はあると思います。

 20世紀にはバレエの「美的な身体」に対してオルタナティヴなモデルとしてより自由で自然な身体を標榜するモダンダンスも登場するわけですが、それに関しても、全く批判なしにみることができるかというとそうではない。ということが今回児玉さんが触れてくださったBLM問題とポストコロニアリズムに関係してくるところです。「自然な身体」としてある種の身体の理想的規範がやはりそこにはあるけれども、そこで理想とされる身体がやはり白人中心主義的に捉えられていたという事実があり、前回・今回冒頭に触れたようにアメリカのダンス研究はそこを反省的に見返す作業を行なっている。

 もう一つモダンダンスについて触れておく必要があると感じるのは、モダンダンスの発生と展開とともに芸術作品としてダンスの地位と、作家としての振付家の地位が明確になってきたということでしょうか。かつてはダンスが娯楽としてしかみなされなかったり、台本作家に権威があって振付家には権威がなかったということがあったのですが、モダンダンスが登場する頃に作品の内容をオーサライズする立場と権威を持った振付家=作家が登場します。ダンスに「作家」が現れるということは、ダンスにおける「作品」のフォーマットができてくるということでもあり、観客はダンス作品の内容を解釈するという、既存のその他の芸術において既に確立した受容モデルに近い形でダンスを鑑賞するようになる。ただ、このことはダンスの芸術としての地位を向上させたものの、諸刃の剣で、ある意味ではダンスを狭める形で芸術という制度のなかに当てはめてしまうということにもなるし、作品の内容をオーサライズする振付家の権限、あるいは作品に込めた作家自身の内面を証言する(testify)者としての振付家の主体やアイデンティティをどこまで自明のものとして信じるか、という別の問題を招来したのだろうと思います。

[1] キャサリン・ダナム(1909-2006)フランス系カナダ人の母と黒人奴隷の子孫である父の間に生まれたアメリカ人舞踊家であり人類学者。

児玉:

 身体の経験的な側面を取り込んでしまうような強力な規範性の確立と、それに対する抵抗の実践がダンスでは歴史的に繰り返されてきている。しかしいわゆる「舞踊史」というものそれ自体が「近代」という枠組みの中で白人中心主義的な視点から形成されてきたものであり、現代におけるダンスの実践そして研究はそれらの問題を踏まえた批判的な視点を抜きにして考えることはできない、ということでしょうか。非常に重要なご指摘をいただき、ありがとうございます。

 また、ダンスが抱えるそのような問題は、現在起こっている社会的な出来事とも連続性をもったアクチュアルなmatterであるということが、越智さんが挙げられた例を通してだんだんと明確になってきた気がします。一見、政治や権力といった事柄とは距離があるように見えるダンスという実践は、実はそれらの力が渦巻く場なのだ、というのが特にここ数十年のダンス研究が明らかにしてきたところであり、だからこそダンスが身体をつらぬく権力を逸脱するような契機でもありえるわけですね。個人的にも深く興味を持っているダンスの側面で、今後も当事者として考えていきたいと思っています。

 少し矛先を変える形にはなりますが、越智さんとのやり取りを通して、西洋の近代という問題の延長線上にうっすらと浮かび上がってきたのは、現代の日本で踊る身体とはどのような意味をもつのか、という疑問ではないかと思います。ポスト・コロニアルな意識は非常に重要であり、われわれはその当事者として、多くの事ができるはずです。ですがもう一方では、旧来的な舞踊史に内在する白人中心主義を克服するために非白人が動員されている、と表現したくなるようなケースも散見されます。私自身がヨーロッパで活動する中で、西洋に批判的な立場をとることを過剰に期待されるというケースも、個人的に何度も経験してきました。言説が独り歩きした結果、ポスト・コロニアリズムが西洋社会のインテリ層における一種のステレオタイプとして定着し、新たなヒエラルキーがその周りに構築されつつある、という現状も指摘できてしまうのかもしれません。

 言い換えれば、ポスト・コロニアルの言説の内側にもコロニアルな構造は存在するのであり、それらといかにして渡り合いながら、権力関係を組み替え続けていくのかという問題が重要です。それ故に、非白人であるわれわれ自身も、この問題の「こちら側」に留まって一つの立場を取り続けることは出来ないのではないか、そしてポスト・コロニアリズムが単純な西洋批判と同義になってしまっては、現代の社会におけるより複雑な権力のあり方を捉え返すことができないのではないかと思います。グローバル化のマクロな力が押し寄せると同時に、個人単位のミクロな管理がどんどん実装されていく現代における権力の問題を真剣に考えるためには、われわれ一人一人が権力の客体であると同時に主体でもあるということを忘れてはいけないと改めて認識しています。

 さて、この「ダンスの(反)近代」というテーマに関しては永遠にやり取りが続いてしまいそうなので、そろそろ着地点をめざしたいところですが、ここまでの議論を踏まえて最後に一つご意見を伺いたい事があります。それは、歴史的な背景から浮かび上がる西洋的なダンスの形式に内在する諸問題を、現代において、特に非白人としてそれらを実践するダンサーたちはどの様に受け止め、乗り越えていけばいいのかということです。日本は世界でも抜きん出て習い事としてのダンス人口が多い「ダンス大国」であり、その全員がダンスを巡る問題の当事者であるはずです。それにも関わらずわれわれは、西洋にとっての「他者」としてしか、それらの問題に踏み込むことは出来ないのでしょうか。言い換えれば、この文章で私達が提示してきた問題に、現代の日本でダンスを実践・研究することを通してアプローチするには、いかなる道筋があり得るのでしょうか?

 これは私自身が抱えてきた悩みで、個人的な質問に過ぎないのかもしれませんが、「ダンスの(反)近代」というトピックに現代の日本でダンスを実践・研究する立場から切り込むとすれば、避けては通れない葛藤ではないかと思います。越智さんは一人の研究者としてどの様にその問題を捉え、ご自身の活動に取り組まれていらっしゃるのでしょうか。そもそも私が持ちかけたテーマである上に、最後に大きな問いを投げかけてしまい申し訳ありませんが、この往復書簡を終えるにあたって、未来へつなげるために、越智さんの個人的なお考えを伺いたいと思っています。