敷地 理 Osamu Shikichi
振付家・演出家・ダンサー。東京藝術大学大学院修士課程修了。YDC2020若手振付家のための在日フランス大使館賞受賞。現在東京を拠点に活動中。
例えば、深々と雪が降るのを部屋の中から窓越しに眺める静かな状況は、均質な時間の流れを別の変化の波へと変えていきます。分かっているものに深い森を作りその中に迷い込んでいく為に、弱さを提示し、不確かな存在になることを考えています。その迷い込んだ脆さの先にある隠れた不可能性が確かさであり、それを実感することが私にとって詩的なものになる可能性を持っています。それらを観客と身体的に共有することを目指して制作をしています。
https://www.instagram.com/osamu_shikichi/
「オブジェクトと身体」
オブジェクト(object)とは自分の外側にある対象を指す言葉であり、つまり自分でないものを表す語である。横文字のオブジェクトと英語のobjectの意味には差異があるが、時折オブジェクトを「モノ」という意味で使うことがある。私がモノをパフォーマンスで使用するとき、舞台美術の小道具と言われると素っ気なく、彫刻と言われるとそういう訳でもない。そこでうまく説明できないので、パフォーマンスで使用するオブジェクトと表現することがある。その時私はそれらのモノを身体の延長または、身体と同程度の存在として注意深く扱う意図を含んでいる。
この定義から考えるなら、私にとってオブジェクトと身体は切り離すことは出来ない。私の身体はobjectでもありsubjectでもある。私の身体は私ではないが私の一部であり、そのあり方の曖昧さが作品の中で探している状態のひとつである。
ダンスが私を惹きつけるのは「objectとしての自分の体と、subjectとしての私の、その2つの繋がりを実感させてくれる」ときにある。悦びや痛み、寂しさといった保存できない感情や記憶、不安定に流動する意識、蒸気の様な私がいる。それら不確かな存在が、自分の体という確かに物質として形を持つモノ(object)と、ダンスをする中で強く結びつき一時的に確かに感じられる。そのクリアなムードがダンスにある悦びである。そしてsubjectが気体の様な存在である為に、ダンスするobjectを通じて自分でない他者(そしてその集団)と流動する不安定なsubjectを共有できる。それにより同じ気持ちになれた様な、悦びを共有している様な空間が生まれることがある。
これらに対する私の個人的な悦びには、リアリティの実感がある。仮設された時空間を共有し集団で人間や彫刻を見ることを求めるのは、そこに在るモノ(オブジェクトや身体)が反射する現実感を欲求しているからに思える。
私が育った東京近郊はベットタウンで、幼少期の記憶は同じ様なシーンの繰り返しに感じた。そこには大量生産された不自由はない日々が生み出す浮遊した感覚があった。だからcity popやショッピングモールのBGMをサンプリングするvaporwaveや、自分たちはモールボーイズだと歌うTohji、それら同世代の音楽に似た様な原風景が見えて酷く共感してしまう。
その為にモノとして存在することは私にとって肉感的で、この手に触れて感じられる確からしさを求めて制作活動を始めた。それからその確からしさへの欲求は、その感覚を伝えるこの手自体に向かっていった。
今あらゆるものが複製され擬似化していく。それをインターネットやデバイスが加速させている。猿が初めて棒を持った時、その棒がその手をクリアにし、それと同時にsubjectとしての自己が、連結したobjectを通じて延長される感覚を覚えたはずだ。いまその猿が手にした棒はスマートフォンやウェアラブルデバイスになり私たちの現実を拡張し複合させていっている。そしてその先にあるのは、猿がその手にした棒を自分の身体に向けて突き刺し、自分の中深くへとその棒を入れ込むことだと思う。それがこのオブジェクトと身体の次のフェーズに思える。その様に想像した時、私たちはもしかしたらその新しい状態の準備を、例えば生殖という形を通して、ずっと昔からリハーサルしてきたのかもしれない。