吉田駿太朗・児玉北斗

 ここでは、往復書簡という形でダンス研究者の吉田駿太朗さんと一つのキーワードを中心に考察を展開してみたいと思います。吉田さんとは個人的に読書会などでご一緒する機会があり、頻繁に意見交換をしているのですが、このような形でダンスのことに絞って考える機会はあまりないので、どうなるのかとても楽しみです。ダンスの批評的な議論に馴染みがない方でも読める様に、噛み砕きながらカジュアルにやり取りができればと思っています。(児玉)


吉田駿太朗 Shuntaro Yoshida

1989 年宮城県⽣まれ。2009年にりゅーとぴあ新潟市⺠芸術⽂化会館を拠点とするカンパニーNoism2に所属し、活動を始める。2020 年、東京藝術大学大学院音楽研究科 Ph.D.(学術)。 現在は公益社団法人メセナ協議会メセナアソシエイツ(外部研究員)に所属。2018 年から1 年間、ニューヨーク⼤学アーツ&サイエンス校東アジア研究科の客員研究員として所属した経験を持つ。振付プロジェクトや舞台作品の発表、現代ダンスの研究を経て、近年はダンサー、振付家、現代ダンス研究者として幅広く活動。2018年よりアーティストコレクティヴMapped to the Closest Addressの一員として国内外のプロジェクトを始動。ポスト・コレオグラフィーを主眼とする現代ダンスの研究を⾏っている。


ポスト・コレオグラフィーをめぐる往復書簡

#1(2020/9/20 up)

(児玉→吉田)

 今回私がキーワードとして提示したのは吉田さんがご自身の研究で言及されている「ポスト・コレオグラフィー」という言葉です。

 この言葉はおそらくほとんどの人にとって馴染みが薄いと思いますが、字義通りに言えば、「振付」以後のダンスという事ですよね。振付家が強い決定権を持ち人を動かすことを批判し、そのような権力を手放しつつダンス作品を成立させようすること、それが「ポスト・コレオグラフィー」という言葉で表されているのかと思います。権力的な振付家という存在への批判がそのまま新たなダンスのかたちを生み出すエネルギーに繫がっている、とだいたいそんな感じの認識からスタートすればいいのでしょうか。そうだとすれば、「ポスト・コレオグラファー」みたいな側面が強いと言えそうですね。

 もちろんそのような批判的意識は重要なのですが、もう一方で、安易にコレクティブやコラボレーションなどへと向かってしまうと、制度を解体して流動的にしていこうといういわゆる「新自由主義」的な流れとも親和性が高くなってしまいます。個人的には最近こういう傾向が過剰な気がしていて、きちんと批評性のある形で協働を志向しているのかどうか疑わしいケースばかりが目につくように思います(これは自戒も込めて)。これを危惧するのは、実は協働は苦しい状況でサバイブするための苦肉の策であることが多いにも関わらず、それがファッショナブルに飾り立てられ、事実が見えにくくなっているからです。表向きは綺麗だけど、舞台裏はぐちゃぐちゃでみんなげっそりしてしまう、ということがアートの世界では起こりがちです。

 そういう意味では、「ポスト・コレオグラフィー」はそれ自体、問題を山ほど抱えている状態からスタートせざるを得ないですよね。引っ張っていく振付家もいなければ、流動的な組織のあり方を安易に肯定することもできない板挟みの状況で、どうにか共に動く方法を考えなければいけない。大変なことです。そういうニッチもサッチもいかないような困難の内側から、なにか新しい可能性を見つけようとするという、ある意味では非常に重苦しいものを背負っているのだと言えそうです。

 突然ですが、ここらへんで吉田さんに投げかけたいとおもいます。このように色々な困難を背負っている「ポスト・コレオグラフィー」ですが、吉田さんはそこにどんな可能性を見ているのでしょうか?あるいは別の表現をすれば、吉田さんは「ポスト・コレオグラフィー」がどのように現れ出ることに興味をもっていらっしゃるのでしょうか?

 僕の認識と吉田さんにとっての「ポスト・コレオグラフィー」にズレがあるのならばそれも含めてご指摘いただければ嬉しいです。

(吉田→児玉)

 ご連絡ありがとうございます。往復書簡というスタイルでダンスについて議論するのは、2013年以来なので本当に楽しみです。よろしくお願いいたします。1回目の往復書簡なので、児玉さんから頂いた質問に応答しつつ、僕と児玉さんの間にある「ポスト・コレオグラフィー」のズレを浮き彫りにできればと思います。

 児玉さんの繰り返しになってしまうかと思いますが、「ポスト・コレオグラフィー」は素朴に言ってしまえば、「振付を共に創造すること」であり、「振付家が振付作品を制作する上での振付の方法論ではなく、いかに振付家がその振付への独創性や創造性、それに付随する権力を手放していくか」という問いをもたらしていると考えられます。このようなことを書くと怒られるかもしれませんが、「ポスト・コレオグラフィー」における振付家は、もはや「振付家」とは言わないかもしれませんね。

 さて、ここからは児玉さんに質問していただいた「ポスト・コレオグラフィー」の可能性に、話を進めていきたいと思います。この用語には、安易なコラボレーションやコレクティヴへの啓発的な意味合いがあることに同意します。その一方で、「ポスト・コレオグラフィー」に関わる実践は、ジェンダーや人種に関する問題、コミュニティー形成の問題、環境・生態系に関する問題と密接に関わり合いながら、ダンスの範囲に留まるか、拡張するのか、世界の先進諸国で大きな問題となっています。社会—芸術の問題へと展開される可能性をもつという点で、僕は「ポスト・コレオグラフィー」を積極的に支持しています。

児玉さんと大きく異なる視点は以下の3つのポイントがあるかと思います。

1)まず、「ポスト・コレオグラフィー」の「ポスト(post)」の意味についてです。先に述べた用語の意味合いと紐付ければ、「ポスト(post)」は「振付家が振付を踊り手に開放的に手渡していく」ことを含んでいます。

2)次に、「ポスト・コレオグラフィー」は振付家の何らかの先に形づくる「プレ・コレオグラフィー(前に規定された振付)」を踊り手に手渡す(pass)ようなプロセスだと考えています。まあ当然と言えば当然ですよね。振付家とダンサーがいる限り、このような出来事は起きているわけですから。ただ、踊り手がプロのダンサーでないときは、どうでしょうか。あるいは、多様な人種・ジェンダーの踊り手、障害者や老人の踊り手、植物が踊り手であったらどうでしょうか。手渡された振付は、振付家から見た偶発的な行為と、踊り手自ら主体的に派生させる身体運動の織りなすものになると言えるでしょう。

3)最後に「ポスト・コレオグラフィー」は、振付家がこれまでアクセスしなかった人々との協働、出会いによる踊り手の偶発的な行為としてしゅつらいするのではないか、と考えています。振付以後のダンスの醍醐味は、振付家の制御しない踊り手の不確定性にあり、僕はそこに可能性の一端を見出しているわけです。

 「ポスト・コレオグラフィー」は、アートワールドの話だけではないですし、コミュニティダンスやデジタルメディアを用いたダンスにも生じている問題でもあります。踊り手が自ら派生させる主体的なダンスと言うのは簡単かもしれませんが、このようなダンスを成立させるためには、残念ながら長期的な時間と労力が必要です。難しい問題ですが、作品主義を捨て、創作プロセスを重視することでしか「ポスト・コレオグラフィー」は現れ出てこないと言えるでしょう。

 長くなってしまったので、ここでまとめますね。児玉さんと僕の相違点は、ダンスが最終的な結果物としてどのように残るのか、というものだと見受けられます。ここで以下の質問を投げかけたいと思います。児玉さんにとって「ポスト・コレオグラフィー」とは、どのような未来投機として存在するのか、未だかつてコンセプトから共有するような集団創作は成立していない事実を鑑みると、児玉さんは「ポスト・コレオグラフィー」においてどのような成果物を考えていらっしゃるのでしょうか。

 ここからは未来の話になるかもしれませんが、具体的な事例を織り込みながら指摘頂ければ幸いです。もちろん他の気になる点を指摘していただいても構いません。

よろしくお願いいたします。


#2 (2020/11/7 up)

(児玉→吉田)

 吉田さんのお話をうけて、「ポスト・コレオグラフィー」が作品主義を乗り越えた先にあるものだとすれば、やはりそれはコレオグラフィーと共存関係にあるものなのではないかという気がします。人によってはそれを良しとせず、コレオグラフィーを否定するものとしてポスト・コレオグラフィーを想定してしまうでしょうが、それだとむしろ旧来的なコレオグラフィーの形を強化してしまうのではないかと感じています。

 僕は自分の研究でネルソン・グッドマンというアメリカの哲学者の芸術理論をダンス実践の立場から取り扱っていますが、グッドマンの哲学では「作品」というものが非常に強固なものとして扱われています。なんというか、できるだけしっかりと「硬く」しようとするような方向で作品概念を扱っているような感じがあるのです。それに対して、近年のダンス研究では、旧来的な作品概念とはかけ離れた、ダンス特有のある意味非常に「しなやか」な作品概念が提案されてきています。上演から切り離して自立する確固としたオブジェクトとしての作品ではなく、常に上演と共に、つまり上演に伴う不確定な偶有性contingencyと共に変化する「なまもの」としての作品概念です。ダンスはコレオグラフィーの実践を通して調理しても、ミディアムレアぐらいの感じで「生」であり続けるんですよね。

 ポスト・コレオグラフィーの実践はそれに輪をかけてさらに生っぽさが炸裂するようなものです。それは保存することができず、再現することさえ不可能な一回限りの出来事を本質的な要素とした芸術の実践です。ほとんど生でも成立するぐらい強力な魅力を持った上演ですが、ただ生なだけでは成立しないのも確かなのではないかと思います。お刺身も、サラダも、調味料はもちろん、切り方なり盛り付け方なり、やっぱりちょっとだけ手が加わることで美味しく食べれるのではないでしょうか。

 下手な例えはいい加減やめて(笑)、ダンス作品の実例を挙げると、例えばポスト・コレオグラフィー的なものとして挙げられるジェローム・ベルの『ガラ』では、確かに振付家の意図できない形で素人の参加者の生っぽい魅力が炸裂します。しかし実はそこで大事なのは、必ず数人だけキャストに混ぜられているプロフェッショナル・ダンサー達なのではないか?と思ったりします。しっかりとした作品を志向するコレオグラフィーの実践に対して、それを根底から揺るがすことで新たなダンスの可能性を掘り起こすポスト・コレオグラフィー的な実践の中で、訓練されたダンサーたちの身体に刻み込まれた「ダンスの記憶」が必要最低限の枠組みを与えている可能性は、考える価値があるのではないかと思います。

 『ガラ』の場合、プロダンサーたちはある意味でスケープゴートのように使われている部分も否定できないわけですが(僕はそもそもダンサーと「スケープゴート」は深い関係にあると思っています)、例えばボリス・シャルマッツの『こども』にもポスト・コレオグラフィー的な部分を認めるのであれば、そこで逸脱するこどもたちを支え、時には暴力的なイメージを生み出しつつも、完璧に安全を確保し上演を可能にするダンサー達がやはり重要なのではないでしょうか。僕自身がプロフェッショナル・ダンサーなこともあり、その立場を擁護している部分はあるかもしれません。ですが『こども』に関して言えば、ダンサーのみならず舞台美術や劇場という機構そのもの、そして全てをオペレートしている振付家の存在までが強く意識させられる作品になっています。時に逸脱的に振る舞い、時には完全に身体を委ねてしまうこども達を囲う、何重ものコレオグラフィーが可視化され、中心のカオス状態を可能にする周囲の構造が明らかになっている。コレオグラフされたプロのダンサーの身体が、そこで逸脱が起こる可能性を支える一つの枠組みとして機能することには、個人的に強い興味を覚えます。

 話は少し変わりますが、ストックホルムで2015年に開催された「ポスト・ダンス」と名付けられたカンファレンスで、振付家のモーテン・スポングベリは次のような問いを投げかけています。「ポスト・ダンスとは、(ダンスが)あまりにも臭いものになってしまったがためにその匂いを消すためのデオドラントのようなものなのか?それとも、自分らしい魅力的な香りを増幅してくれる香水のようなものなのか?」。当然後者であるべきなのですが、「ポスト・コレオグラフィー」にもこれとほぼ同じことが言えるのではないでしょうか。コレオグラフィーという実践の問題点を十分に意識した上で、新たなコレオグラフィーの形を探っていくための先駆的な領域、それを可能にするのは、やはりコレオグラフィーが失敗を通して培ってきた様々な身体知や制度なのではないかと思います。

 今日は大戸屋で「バジルチキンサラダ定食」を食べたのですが、グリルされたチキンがサラダの上に乗っかっていて、それが焼き物のお皿に盛り付けてありました。「サラダ定食」って概念的にかなり攻めてると思いますが、いろんな「火が通ったもの」がなんとかそれを成立させているのだなと(例えが下手すぎ・・・笑)。シャルマッツの『こども』は逸脱的表現と文化的枠組みの関係性を最も効果的かつ芸術的に実現した近年のダンス作品だと思っていますが、そういった共存関係を考える必要性を認めた上で、僕も吉田さんが研究を通して論じてきたポスト・コレオグラフィーの可能性に最大限の同意を示したいと思います。

 長くなりましたが、これで一旦、お渡しします。よかったら今度、「バジルチキンサラダ定食」召し上がってみてください。

(吉田→児玉)

 ご返信いただきありがとうございます。1回目の往復書簡から少し日が空いてしまったことをお詫びします。ちなみにバジルチキンサラダ定食はまだ食べていないので、次の往復書簡の機会に。今回の2回目の往復書簡では、児玉さんから戴いた幾つかの問題提起をもとにポスト・コレオグラフィーについて議論を展開できればと思います。よろしくお願いいたします。

 児玉さんが前回の往復書簡で述べていますように 、ポスト・コレオグラフィーはコレオグラフィーの否定ではありません(差しあたり、コレオグラフィーを欧米のダンス史の中で構築されてきた、合理的な身体運動の構成、とさせて下さい)。欧米のダンス史では、「振付家の時代」が形成しつつも、振付家は独裁制を緩和させるようなアプローチも実践してきました。当然ながら振付家によって旧来のコレオグラフィーへの否定もなされてきましたが、その否定さえも作品主義の枠組みの中に留まり続けるものです。それゆえ、ポスト・コレオグラフィーを考える際には、児玉さんの指摘する作品の「生」であり続けることへの着目であると同時に、もう少し解像度を上げてみると、創作プロセスにおいてどのような不確定な偶有性contingencyが浮かび上がるのか、という問題が鍵になるかと思います。言い換えれば、ポスト・コレオグラフィーは振付家の独裁制をやめ、踊る主体の不確定な偶有性に委ねる、という二つの意味合いが含まれているかと思います。

 児玉さんに挙げて頂いた事例の中で、ジェローム・ベルの『ガラ(Gala)』(2015)は僕にとって「ポスト・コレオグラフィー」を考える土台となっています。僕は『ガラ』へと至るリサーチとして位置づけられる『ダンスと声のワークショップ(Atelier danse et voix)』(2014)やその作品の中止後に開催されたブリュッセル、ヴェネチア、ミュンヘンの三都市のワークショップに参加する中で、ベルの参加者に委ねる方法論を目の当たりにしました。おそらく僕が目にしたのは、創作プロセスにおける時間durationの中で、アマチュアが振付家に委ねられたコレオグラフィーを自ら派生させていることでした。『ダンスと声のワークショップ』からパリの『ガラ』に参加していたアマチュアの参加者は、プロのダンサーが後に加入した後も、アマチュアであることを自覚しつつも自ら派生させる偶発的な身体運動を実践していました。プロのダンサーはアマチュアとベルの構築する関係に巻き込まれることで、自らの身体運動の提示の仕方を考えなければならないのですが、多くのプロのダンサーは旧来のコレオグラフィーに追随していた印象がありました。ただし、パリの公演の際、ヴッパタール舞踊団で活躍していたラファエル・ドロネーさんがご子息と参加していましたが、彼女の「ダンスの記憶」だけでなく、ご子息と踊ることで、新たな関係を集団にもたらしていました。

 少し話が脱線しました。ベルの創作プロセスにおいて、僕が見出したポスト・コレオグラフィーとは、参加者の主体性の中で派生する振付家から見た偶発的な行為と、参加者自らが派生させる非意識的な身体運動の織りなす、偶然的な身体運動の概念であり、従来の制限付きの偶然性とは一線を画す参加者の「誤動clumsy-seeming movement」でした。誤動は英語で直訳すると、「不器用に見える身体運動」ですが、アマチュアの参加者は集団創作においてプロのダンサーにはできない失敗や真似を連鎖させることで、欧米のダンス史の合理的な身体の動きへのアンチ・テーゼやカウンターといったものになるのではなく、アマチュアとプロのダンサーと共に創ることを可能にしていたのです。僕にとってポスト・コレオグラフィーに紐付けられる不確定な偶有性の正体は、この参加者の「誤動」という概念でした(ポスト・コラオグラフィーには他にもたくさん概念が紐付けられるかと思います。)。誤動とは、欧米のダンス史が連綿と築き上げた旧来のコレオグラフィーと旧来のコレオグラフィーの否定を相対化させ、振付家の独裁制というシステムに障害を与えるという点で、既存の芸術システムの「外部」の人々がつくりだすダンスとして芸術—社会領域に登場してくるものなのではないかと考えています(注記:本往復書簡では、2年間のワークショップを経たパリの『ガラ』を挙げています。『ガラ』の再演については、2018年の日本やタイのリハーサル及び公演をリサーチしましたが、残念ながら短期間のリハーサルであるため、搾取的な様相は免れません。日本、タイの『ガラ』とパリの『ガラ』との違いは、振付家と参加者との関係の構築や創作プロセスに特に顕著でした。)。無責任な言い方をすれば、ポスト・コレオグラフィーは未来に開かれつつ、ダンスを延命する方法だとも言えるでしょう。

 ボリス・シャルマッツの『こども』を舞台でしか拝見していませんが、僕は創作プロセスの中で、こどもたちの自ら派生させる偶発的な身体運動が振付家のアプローチとどれくらいギャップがあり、また集団の中で失敗しているのかが鍵となります(ミカエル・フィリポーの『エタンのために(Pour Ethan)』(2014)、アマチュアの参加者を含めたティエリー・ニアンの『春の…Du printemps!)』(2013)、マチルド・モニエの『私たちは何が起きたのか?!!?(Qu’est-ce qui nous arrive?!!?)』(2013)、地域住民や参加者と協働するグザビエ・ル・ロワの『続無題(Still Untitled)』(2017)など、アマチュアの参加者を含めた多岐にわたる振付実践が挙げられるでしょう。当時滞在していたのが、フランスであったため、作品の事例がフランスのものが多く、恐縮です。)。また、ポスト・コレオグラフィーの可能性は、2010年代に参加型のダンスとして拡げられた一方で、非人間の行為者にも向けることができます。アメリカ人振付家ジェニファー・モンソンは『芸術、自然そしてダンスのための領域横断的な実験(iLANDing)』において、都市のエコロジーを調査するためにダンサー、科学者、芸術家の集団を結び付けてきた実績があります。彼女のアプローチは人間と非人間との共存関係に着手することで、集団創作へと至っている事例です。

 加えて、パフォーミング・アーツや美術のこれまでの協働は、アート界内部、隣接分野の人材を組み合わせて実行されてきました(ところで、バジルチキンサラダ定食はまだフード内部の話に留まっているのかもしれないですね 。いずれにしても次の往復書簡までには食べてみたいと思います。)。他のジャンルの専門家や技術者、研究者との協働創作を目指すことが重要であり、作家と集団が一からコンセプトを共有し、対話を重ねながらコンセプトを練り上げていくことで、協働的な集団創作が成立するのか、という議題がやはりポスト・コレオグラフィーの醍醐味なのではないかと考えます。願わくは、研究と実践を互いにフィードバックさせることで協働の基盤を構築し、またいかに協働を成立させるのか、という未来への問いかけを同時になし得る必要性があります。

 情報量が多くなってしまいましたが、児玉さんとのポスト・コレオグラフィーの議論を少し深めることができたでしょうか。結局は未来への議論を含めて実践することでしか、ポスト・コレオグラフィーへと辿り着くことができないのでしょうね。次に議論できる点は、現実の創作プロセスの中に生じるさまざまな権力構造の中での非対象性の問題や振付家の独裁制の問題かと思います。児玉さんは創作の現場の中で、どのようにそれらの問題を乗り越えることができるとお考えでしょうか。


#3へ続く・・・